オウム真理教とは何だったのか(2)

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 前回のブログでは、オウム真理教が誕生した時代背景と、オウム真理教がなぜ若者を惹きつけたのかを、わたし自身の体験も交えて述べました。

 今回のブログでは、オウム真理教が宗教集団でありながら狂暴化していく過程を概観してみたいと思います。

 

松本智津夫の成育歴

 オウム真理教では、麻原彰晃は開祖であり絶対的な存在であるため、組織の方向性に最も影響を与えているのは麻原自身です。そこで麻原の精神病理を分析するために、彼の成育歴を述べることから始めましょう。

 一橋文哉の『オウム真理教事件とは何だったのか?』1)によれば、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県の旧八代郡金剛村に、7人同胞の下から二番目に当たる四男として出生しました。父親は畳屋を営んでいましたが、松本家自体がトタン板にワラをかぶせた納屋のような住宅に住んでおり、周囲にも経済的に苦しい家が多かったため、畳屋が繁盛するわけはありませんでした。松本家は典型的な貧乏人の子だくさんの家庭でした。

 智津夫は先天性緑内障視野狭窄のため、6歳で親元を離れ、約40キロも離れた熊本市の盲学校に入学しました。智津夫はその盲学校の寄宿舎で、14年間を過ごすことになります。

 入学の真の理由は、経済的に困窮していた一家の口減らしと、国から下りる就学奨学金を実家に送らせて生活費に充てることでした。嫌がる智津夫を強引に入学させただけでなく、週末や長期休暇になっても誰も智津夫のもとには訪れませんでした。差し入れ品もなく、見かねた教諭たちが上級生のお下がりを譲り受けて智津夫に着せていたといいます。

 智津夫は後に、友人に次のように語りました。

 

 「「私の親は就学奨学金を自分たちのために使おうと、私からかすめ取ろうとした。そこまで私は両親から嫌われ、疎まれていた。いらん子だったんだ」

 「小さい頃、私が悪戯する度に父親はボコボコに殴りつけ、母親は『智津夫は私の子じゃない。恥ずかしくて表を歩けないよ』と大声で言いふらした。二人はいつも真剣に『どこかに捨てて来ようか』と話し合っていた。ある時、実際にはやっていないスイカ泥棒の汚名を着せて、私を散々殴った末に叩き出した。盲学校に行かされたのも同じで、追い出したかっただけだ。私は親に捨てられたんだ」」(『オウム真理教事件とは何だったのか?』44頁)

 

 智津夫は、両親から嫌われ、疎まれていました。家族が就学奨学金をもらうために、行きたくもない盲学校の宿舎に強引に入れられ、そこで捨て置かれました。父親からは暴力を振るわれ、母親からは「自分の子じゃない」と言われ、盲学校に行かされたのは、文字通り親から捨てられたことを意味しました。

 このような成育環境で育った者は、後に重篤精神障害を来しても何の不思議もありません。しかし、智津夫は、このような逆境をある意味で逞しく乗り越えて行くのです。上掲書に従って述べて行きましょう。

 

松本智津夫の王国

  智津夫の左目はほとんど見えませんでしたが、右目は当初は1.0近く、後にも0.2~0.3度の視力があったといいます。周囲の景色などはきちんと見分けられましたし、顔を書物に近づければ字を読むこともできました。そのため、智津夫は目の不自由な生徒たちより勉学、特に体育が得意なのは当然でした。

 智津夫は次第に、下級生らを引き連れ、学校に届け出ない勝手な外出をするようになります。そして、目が不自由な生徒たちが一人では帰れない弱味につけ込んで、自分が読みたい本や菓子などを万引きさせるようになりました。

 さらに寮で出されるキャラメルやビスケットなどの菓子類を下級生から巻き上げ、選挙の前に生徒たちに配って「俺に投票してくれ」と買収行為に及びました。小学部時代には児童会選挙、中等部で生徒会選挙に立候補しましたが、それにも拘らず共に落選するなど、智津夫には人望がありませんでした。

 しかし、落選後は別の候補に投票した生徒たちを校舎裏などに呼び出し、「裏切者」と怒鳴りつけたうえで、力任せに殴りました。やがて智津夫にとって盲学校の生徒たちは、いつでも容易に服従させることができる便利で有難い存在になって行きます。盲学校という世界で唯一目が見えるという特権を行使できた智津夫は、権力と腕力を振りかざして命じさえすれば、いつもでも思い通りになる自分の王国を築くことができました。

 こうして家庭に居場所を見つけることができず、両親から疎まれたり暴力を振るわれたうえで捨てられた智津夫は、今度は自らが腕力や権力を振りかざす側に立場を変えることで自らの王国を作り上げ、そこに自分の居場所を作ることに成功したのです。

 

麻原彰晃の王国

 この時の体験は、後に麻原彰晃オウム真理教という自らの王国を作り上げるときに活かされました。盲学校という世界で唯一目が見えるという特権を行使したように、オウム真理教の中で、麻原には唯一の特権がありました。それは、麻原だけが解脱を達成した"最終解脱者"だったことです。

 もちろんこれはインチキだったのですが、教団内では、麻原だけが信者のカルマも、この世の行く末も見通せる解脱者と見なされていました。対して信者は、修業の仕方や何を目指して生きるのかについてはまったく"盲目"でした。こうしてオウム真理教では、解脱に対して盲目な信者と、開眼した唯一の解脱者という構造が出来上がって行きます。

 たとえば、麻原の些細な言動が、林邦夫にとっては解脱者としての能力に見えています。

 

 「その『シークレット・ヨーガ』の席には、当時茨城方面の担当であった中村昇が、大師として、私の前の人のときまでつめていました。私はふと懺悔の内容が彼に対してなんとなく恥ずかしいような気持ちが湧いてきて、中村昇がいなければ話し易いのだがなと思いました。すると驚いたことに、私が部屋に入るときに麻原は彼を外に出してしまったのです。驚いたというのは、私はこれを偶然などと思わず、『他心通』という他人の心を見抜く神通力を麻原がもっていて、その能力によって中村昇を外に出したものと解釈したからです」(『オウムと私』2)83頁)

 

 この出来事はただの偶然だったのかもしれませんし、麻原がその場の雰囲気を掴むのがうまく、林が恥ずかしがっているのを察知して、中村を外に出したのかもしれません。それを林は、麻原の「他心通」という神通力だと理解するのです。

 それだけではありません。麻原の理不尽な言動でさえ、信者には修業の一環として捉えられます。

 

 「グルがわざと弟子に無理難題をいって心の葛藤を引き出し、弟子自身が気づかない煩悩を気づかせたり、カルマを現象化させ、そのカルマを体験させることで清算させたりというのが、オウムのサマナの間で言われていた『グルの仕かけ』=『マハームドラーをかける』=『カルマ落とし』=『ポアされる』ということなのです」(『オウムと私』143頁)

 

 麻原が無理難題を言うことは、弟子の気づかない煩悩やカルマ(業=後の世に影響を与える前世の行為)を顕在化させ、それを現世で清算させるためでした。そして、マハームドラーをかける、それはカルマを落とすことで「大いなる空(マハームドラ)」の状態が体得され、ポアする、すなわち意識を高い世界に移すことを目指すための行いだと理解されました。

 こうなってしまえば、麻原の言動はすべて、弟子の修行のためだと捉えられます。弟子たちはどんな理不尽なことでも、自らの修業のために麻原が与えてくれたものだと感謝し、ただただ麻原に盲従するという構造が形成されます。ここから麻原が絶対的な支配者として君臨し、権力を振りかざして命じさえすれば、いつもでも思い通りに事が運ぶ自分の王国を築く基盤が作られたのです。(続く)

 

 

文献

1)一橋文哉:オウム真理教事件とは何だったのか?麻原彰晃の正体と封印された闇社会.PHP研究所,東京,2018.
2)林 郁夫:オウムと私.文芸春秋,東京,1998.