オウム真理教とは何だったのか(1)

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 去る7月6日に麻原彰晃こと松本智津夫はじめオウム真理教の7人の幹部が、7月26日には残された6人の幹部の死刑が執行されました。これほどの人数の死刑が一気に執行されたことが初めてだったこともあり、多くのマスコミで一斉に報道されました。その報道の中には、死刑制度そのものの賛否とともに、オウム事件の謎がこれで永遠に解き明かされなくなったという論調も見られました。

 確かにオウム真理教による事件は、宗教法人が起こしたものとしては、規模においてもその残虐性においても空前絶後でした。また、一連の事件の実行犯である信者の多くが、高学歴で真面目な青年だったことも人々を驚かせました。

 なぜ、オウム真理教は史実に残るような悲惨な事件を次々と起こしたのでしょうか。そして、オウム真理教とはどうしてこのような教団に変貌したのでしょうか。

 今回のブログではこうした疑問について、宗教・文化的な側面から検討したいと思います。

 

学歴社会の縮図

 オウム真理教で特筆すべきことは、高学歴の幹部が多いことです。たとえば、村井秀夫(大阪大学大学院理学研究科)、遠藤誠一京都大学大学院医学研究科)、林郁夫(慶応大学医学部)、中川智正京都府立医科大学)、早川紀代秀大阪府立大学大学院農学研究科)、上祐史浩早稲田大学大学院理工学研究科)、青山吉伸京都大学法学部)、野田成人(東京大学理学部物理学科中退)、土谷正美(筑波大学大学院化学研究科)、豊田亨東京大学大学院理学系研究科)などです。

 オウム真理教は、宗教団体でありながらまるで学歴社会の縮図のようです。そこには県立盲学校を卒業しただけの麻原彰晃の、学歴に対するコンプレックスがあったのかもしれません。高学歴の弟子を従えることによって、自らの学歴コンプレックスを解消するためです。

 それにしても弟子たちは、そうそうたる大学で学びながら、なぜ宗教の道に足を踏み入れ、麻原彰晃の言うままに反社会的行為を起こすことになったのでしょうか。

 

科学神話の終焉

 このことを検討する前に、当時の社会背景を概観しておきましょう。当時は科学が万能であると捉えられていた時代から、科学に疑問が向けられた時代への分岐点にありました。

 アメリカがアポロ計画を表明し、アポロ11号によって人類が月面に降り立ったのが1969年7月20日でした。この瞬間に、科学への信仰は頂点に達しました。このときこそ、誰もが科学によって奇跡が起こされたことを目の当たりにし、科学神話の正当性を疑う者は誰一人として存在しませんでした。そして、科学の発展が人類を果てしなき栄光へと導き、科学が幸せな未来を約束してくれると人々は信じました。
 しかし、科学が万能であると信じられた期間は、そう長くは続きませんでした。科学は確かに人々の生活を便利にして生活の質を向上させましたが、それだけで人は幸福になるわけではありませんでした。科学によって、社会問題がすべて解決されたわけではなく、国や文化間の対立もなくなりませんでした。紛争や貧困、地域格差といった問題は、相変わらず存在し続けました。社会をどのように導いていったらいいのかという点において、科学は無力でした。人々の心を支え、人生の道標を指し示す限りにおいて、科学には宗教のような力はありませんでした。
 次第に科学は万能ではなく、科学によって解決される問題と解決されない問題が存在することが明らかになりました。こうした限界を打破しようと、1980年代にはニューサイエンスと呼ばれる新たな科学思想が模索されましたが、科学の限界を根本的に変革するには至りませんでした。
 1986年に、科学は決して万能ではないことを象徴的に示す出来事が起こります。アメリカの新たな宇宙計画であるスペースシャトルで、チャレンジャー号が打ち上げ直後に爆発事故を起こし、乗組員全員が死亡しました。
 全世界に放映された衝撃的な爆発事故の映像は、科学にも欠陥があることを印象づけるための充分な効果をもたらしました。この出来事は、それまでに絶対に正しいと信じられてきた科学に、疑いの目を向けさせる端緒となりました。人類が月に降り立ったときに科学に向けられた絶対の信仰が、同じ分野における無惨な失敗によって大きな失望へと変わりました。そして、科学は万能であるという科学神話は、このときを境に終焉への途を歩み始めることになったのです。

 

阿含宗オウム真理教

 オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」が、オウム真理教に改称されたのが時を同じくした1987年でした。

 この当時の時代の雰囲気を、わたしも同じように体験していました。1980年に大学生になったわたしは、理性を至上とする啓蒙主義や科学が万能であるとする科学至上主義に疑問を感じるようになりました。当時流行したニューサイエンス系の本(たとえば、アーサー・ケストラーの『還元主義を超えて』や『ホロン革命』、ライアル・ワトソンの『生命潮流』、アルビン・トフラーの『第三の波』などです)を読んでみましたが、自分の感覚にぴったりと合うものはありませんでした。

 その時に出会ったのが桐山靖雄の『間脳思考』1)という本でした。人が生きるためには理性や科学知識よりも本能が重要ではないかと考えていたわたしは、この本の題名に思わず目を奪われました。そして、大脳皮質よりも間脳に注目し、間脳の未知なる働きを開発することが21世紀の人類にとって最後の可能性であると訴えるこの本は、当時のわたしの気持ちを大きく揺さぶりました。そこで彼の本を何冊か読んでみましたが、それだけでは飽き足らず、桐山靖雄が開祖となって開いた阿含宗の道場で学んでみたいと思うようにもなりました(結局、道場には行ったものの、入信することはありませんでした。その道場が修業の場には見えなかったことと、精神医学に進むことで宗教に代わるものが見つかるように思われたからです)。

 ところで、この阿含宗こそ、麻原彰晃早川紀代秀、さらに林郁夫が一時身を置いていた教団でした。麻原が阿含宗に入信して後にオウム真理教を開いたこと、そして早川や林が阿含宗に入信して後にオウム真理教に移ったことは、まったく荒唐無稽な選択だったようにはみえません。阿含宗オウム真理教も、当時の時代背景の中から必然的に生じた、新たな流れの一つだったのだとわたしには思えるのです。

 

なぜオウム真理教だったのか

 このように1980年代は、新たな宗教が台頭した時代でもありました。では、彼らはなぜ阿含宗ではなく、オウム真理教だったのでしょうか。

 林郁夫は、阿含宗からオウム真理教に移った理由を、『オウムと私』2)の中で次のように述べています。

 

 「教義は釈迦の原始仏教を現代に実践するものであり、教祖の麻原は桐山師と同様に現代社会に警鐘を鳴らしているが、しかしその救済活動は三万人の成就者を出すと主張していたように、より積極的であって、実際に人数と時期を予告して弟子を成就させており、麻原がいっていたように、釈迦が現代に現れるとこうするというような解脱者に見え、私が宗教に期待していたすべての条件を満たしていました。麻原は、自分の生命エネルギーをも用い人の幸福のため、生命まで賭けて努力できる人物だと私には思えました。(中略)私は麻原とオウム教団に、『釈迦とその出家集団の現代版』というイメージを重ねていました」(『オウムと私』77‐78頁)

 

 林にとって麻原は、現在社会を救う救世主であり、三万人の成就者を導く偉大な師でした。さらに、「私は麻原とオウム教団に、『釈迦とその出家集団の現代版』というイメージを重ねていました」と述べられているように、麻原が出家した弟子の一人一人の各自に応じたメニューを与え、修業によって成就させていることも大きな魅力だったようです。

 これに対して、阿含宗では解脱は容易ではなさそうでした。

 

 「私が大きなショックを受けたのは、桐山師の講和の中に『私は死ぬ前には解脱できるだろう』という発言があったことでした。(中略)桐山師が『解脱』に至る修行法を体験から理解していて、それをグルとして実修させてくれて、『解脱』へ導いてくれるというのが私の桐山師への期待でした。(中略)

 桐山師自身ですら『死ぬまでに解脱するかどうか』というのでは、『弟子たちの解脱』は、なおさら不確実であるということにならないのかと思いました。そうはっきり聞いてしまうと、このころまでに出てきていた阿含宗での修業法についての不満なども合わさって、ともすれば期待は空しいものに思えてしまうのでした」(『オウムと私』56頁)

 

 阿含宗では、どれだけ頑張っても死ぬまでに解脱できるかどうかはわかりませんでした。しかし、オウム真理教では、より確実に修業を成就に導き、最終的には解脱をかなえるという期待に応えてくれるように林には思えたのです。

 このようにオウム真理教は、若者にありがちな万能感をうまくくすぐり、自分を優れた存在に変えてくれるという期待を抱かせることに、充分に成功しているのだと言えるでしょう。(続く)

 

 

文献
1)桐山靖雄:間脳思考 霊的バイオ・ホロニクスの時代.平河出版社,東京,1984

2)林 郁夫:オウムと私.文芸春秋,東京,1998.