朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか(5)

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 前回のブログでは、戦後の外的自己と内的自己の変化について述べました。太平洋戦争で壊滅的な敗戦を経験し、さらに6年8ヶ月もの占領を受けたため、日本はあからさまに反米を主張することができなくなりました。外的自己である親米政府が政権を担当し、対米追従政策をいっそう推進しました。右翼の一部は親米となって外的自己に取り込まれ、一部の国粋主義者だけが内的自己として残りました。

 その一方で、左翼は共産主義を奉じ、反米、反外的自己の立場から内的自己を代表するようになりました。その最初の表れが、1960年と1970年に起こった安保闘争でした。

 内的自己は、その後どうなっていったのでしょうか。

 

非武装中立

 1980年になると、日本社会党から驚くべき理論が提出されます。それが、自衛隊も含めたいっさいの常備軍を持たず、どこの国とも軍事同盟を結ばず、いかなる戦争にも中立の立場を採るという非武装中立論です。この理論は、憲法9条で謳われる戦力と交戦権の放棄を発展させ、9条に基づいた外交的戦略を示したものと思われます。

 しかし、弱肉強食がまかり通る世界情勢の中で、軍事力や軍事同盟を持たずに、軍事的中立を守ることなどできるのでしょうか。

 実は日本史上に、非武装中立が実現されていた時代があります。それは、約1万2千年前から始まり約2400年前まで続いた縄文時代です。

 縄文人は戦闘のための武器を持たず、戦争自体を行いませんでした。そして、戦争のない時代を1万年も続けました。それが可能だったのは、日本列島が海に囲まれていたからです。特に縄文時代には温暖化のため海が陸地深くまで押し寄せており(これは縄文海進と呼ばれています)、大陸と日本列島には現在以上の隔たりがありました。そのため、優れた航海技術を持つ縄文人以外は日本列島にたどり着くことができず、縄文人は戦争のない平和な社会を維持することができたのです(以上の詳細は、2018年3月のブログ『縄文人はなぜ戦争をしなかったのか』をご参照ください)。

 

非現実的な空想

 しかし、縄文時代非武装中立は、戦争の文化をもつ弥生人の渡来によって終焉を迎えます。その後の日本は、平安時代や江戸時代のように戦争の少ない時代はありましたが、武力を持たない社会を実現することはありませんでした。それなのになぜ、武器が格段に発達した現代の世界の中で、非武装中立などという理論が生まれることになったのでしょうか。

 それは非武装中立論が、内的自己から生まれてきたからです。ここで内的自己についての、岸田秀の指摘を振り返ってみましょう。

 

 「内的自己は、そのような外的自己を自分の仮の姿、偽りの自己と見なし、外的自己の行うことに感情的に関与しなくなり、あたかも他者の行動をながめるように距離をおいて冷静に突き放してそれを観察しようとする。
 内的自己のみが真の自己とされるが、内的自己は、外的現実および他者と切り離され、遊離しているため、ますます非現実的となり、純化され、美化され、妄想的となって行く」(『ものぐさ精神分析1)12頁)

 

 戦争であれほど酷い目にあわされたアメリカと日米安保という軍事同盟を締結し、軍事基地を日本に残し、アメリカ軍を補完する日本政府という外的自己の姿を、内的自己である社会党は、偽りの日本人の行動と見なし、政府の軍事的戦略を現実的に検討しようとはしませんでした。

 社会党の人々は自分たちこそが真の日本人であり、自らの外交戦略こそ日本人の進むべき道を示していると考えました。そして、内的自己である社会党の思想は、外的現実および現実の外国の政策と切り離され遊離しているために、ますます非現実的となり、純化され、美化されました。その結果として、非武装・非同盟でも軍事的な中立を保てるというおよそ非現実的な空想、もっと言えば現実から完全に遊離した妄想的な理論を作り上げることができたのです。

 

朝日新聞は内的自己だった

 さて、随分と遠回りしましたが、朝日新聞がなぜ国益に反する報道を続けるのかという検討を再開しましょう。

 もう気付かれていると思いますが、それは朝日新聞が内的自己を代表する報道機関だからです。

 太平洋戦争時は、内的自己が爆発した時代でした。戦前の朝日新聞が、戦意高揚を目指し、「新聞も兵器なり」という信念に基づいて、「報道報国」のためのに身をささげていたのは、なにも軍部に強要されていたからではありません。当時の村山長挙社長は、『新聞を武器として米英撃滅まで戦い抜け』と題した昭和18年1月10日号の訓示で、以下のように記しました。

 

 「国民の士気を昂揚し、米英に対する敵愾心を益々興起せしめて大東亜戦争を勝ち抜くべく指導することは、本年におけるわれわれ新聞人に課せらえた最も大なる使命の一つだと信じるのであります」(『太平洋戦争と新聞』2)400頁)

 

 このように米英に対する国民の敵愾心を興起し、大東亜戦争を勝ち抜くよう国民を指導し、米英撃滅まで戦い抜けと訴える訓示は、まさに内的自己の叫びとして捉えられるでしょう。

 

アメリカに日和った占領時代

 ところが、敗戦後の占領時代には、朝日新聞は外的自己と同様の態度をとります。GHQの検閲に従い、反米に繋がる記事を自粛しました。それだけではありません。マッカーサーを賛辞する記事まで書いていました。

 

 「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」(『敗北を抱きしめて[下]』3) 403頁)

 

 さすがに占領時代には、朝日新聞と言えども反米を訴えることはできませんでした。外的自己ののように振舞い、親米の態度を示しました。この時代が、朝日新聞が唯一アメリカに日和ったときだったと言えるでしょう。

 

独立後は再び内的自己に

 しかし、日本が独立を果たすと、朝日新聞の内的自己は次第に頭をもたげ始めます。その事始めが、「北朝鮮は地上の楽園」とする朝鮮総連の喧伝に乗り、1959年に在日朝鮮人とその家族を北朝鮮に帰国させる「北朝鮮帰国事業」に賛同する記事を発表したことです。この記事の背後には共産主義を礼賛する意図がありましたが、その隠された目的には、共産主義と対立するアメリカへの間接的な攻撃があったと考えられます。

 1971年の8月から12月まで朝日新聞に掲載された、本多勝一の「中国の旅」も同様の目的を孕んでいたと言えるでしょう。掲載された内容は、中国側が用意した"証人"の声を聞いただけで確認のための取材もしないまま、毎回残虐で非人道的な日本軍とその行為が語られていくというものでした。

 この記事は戦前の日本軍の非道を告発することを主眼にしていますが、同時に朝日新聞が中国寄りの立場に立ったことも鮮明にしています。この記事に限らず、戦後の朝日新聞は、中国側の立場に立った内容が目立つようになって行きます。

 

背景には反米の思いが

 ところで、ここで二つの疑問が生じます。一つは、非人道的な行為をおこなった(とされる)日本軍を非難するにあたって、朝日新聞には当事者意識が欠落していることです。戦前はあれだけ戦争を煽っていたのですから、当事者として自らを責めたり反省したりする姿勢があってしかるべきです。ところが朝日新聞は、自らは無関係だったと言わんばかりの態度で、一人高みから過去の日本軍を批判しています。

 もう一つは、本多勝一が取材内容を記事にする過程で、証言を裏づける確認の作業を行わなかったことです。これは、意図的に確認の作業を怠ったのではないと思われます。本多は確認の必要はないと感じるほど、中国や中国人の証人を信じ切っていたのでしょう。中国や中国人の証人が間違った証言をするはずはないと、全幅の信頼を置いていたのです。

 これほど中国を信頼できるのは、もっと言えば中国を妄信することができたのは、その背景にアメリカに対する激しい敵意が存在するからではないでしょうか。アメリカへの激しい敵意が存在すれば、アメリカと対立する国を、ただ対立するというだけで信頼することが可能になります。これは、中国や中国人を充分に理解したうえで信頼することではありません。まさにわからないままでも信じる、つまり妄信することです。

 そう考えれば、朝日新聞が日本軍の中国での非道に対して、一人高みから無関係だと言わんばかりの立場を採っていたことも理解できます。朝日新聞はあくまで反米なのであり、中国に対する戦争は本来望んでなかったはずです。だからこそ、日中戦争に対しては当事者意識がないのであり、さらには反米、親中の報道機関として、『中国の旅』を堂々と上梓することができたのです。(続く)

 

 

文献

1)岸田 秀:ものぐさ精神分析青土社,東京,1977.

2)前坂俊之:太平洋戦争と新聞.講談社学術文庫,東京,2007.
3)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.