朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか(4)

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 前回のブログでは、岸田秀の理論に従って、近代以降の日本を外的自己と内的自己の分裂という観点で分析しました。それによれば、ペリーに無理やり開国させられて外的自己と内的自己に分裂した日本は、明治維新後は外的自己が、太平洋戦争時には内的自己が、終戦後には再び外的自己が表に現れて社会を動かすことになりました。

 その結果、鬼畜米英を叫んで対米戦争に全霊をささげていた日本は、戦後は一転して世界でも稀にみる親米国家となり、対米追従政策をとり続けました。しかし、戦後においても内的自己は消失したわけではありません。日本社会の深部に潜行し、折に触れて社会の表面に姿を現しました。

 今回のブログでは、戦後の日本社会における外的自己と内的自己を、さらに検討することから始めたいと思います。

 

対米追従する外的自己
 ペリー・ショック以来、アメリカへの屈辱を晴らそうと臥薪嘗胆を重ねてきた日本ですが、太平洋戦争での敗戦はさらなる屈辱感を日本人に与えました。なにしろ、海外の戦地で完膚なきまでに叩きのめされた上に、国土を絨毯爆撃で焼き尽くされ、さらには人類史上初めて使われた原爆を二発も落とされました。加えてGHQによる日本の占領が6年8ヶ月に渡って続けられました。これほどの屈辱が、日本の歴史上存在したでしょうか。その結果、日本人の外的自己と内的自己の分裂はいっそう激しくなりました。

 外的自己は、これほどまでに屈辱的な体験を抑圧し、親米的な態度をとり続けました。対米追従政策を続けたため、アメリカが風邪をひくと日本が肺炎になると揶揄されました。

 米ソ冷戦の時代になると、日本は共産主義から自由主義を護るための防波堤の役割を課せられました。そのため、独立後も日本の各地にはアメリカ軍の基地が残されました。これでは日本がまだ国家として独立しておらず、アメリカ軍に占領されたままの状態であるという見方もできるでしょう。

 

いっそう卑屈になった外的自己

 アメリカ軍の駐留は、日本の国土を護るために必要とされましたが、本来は共産主義国家の侵攻を防ぐために駐留しているにすぎませんでした。この現実から目をそらし、日本国家が主体的にアメリカ軍を駐留させているという側面を強調するために、アメリカ軍に「思いやり予算」を計上することまでが行われました。

 政策の面でも、アメリカ追従は明らかでした。それは戦後の復興期に限られたことではありません。アメリカの影響力は、近年になって一層増しているように思われます。

 宮沢内閣で取り決められた「年次改革要望書」で示されるアメリカからの要求は、次々に現実の政策となって実現しました。小泉内閣では、日本の対米追従はいっそう顕著になりました。内政では、新自由主義的な改革が推し進められ、あらゆる分野で民営化が推進されました。市場原理主義を旗印にしたアメリカ式の新自由主義経済に、日本経済は大きくシフトしました。改革の本丸と位置づけられた郵政民営化は、小泉首相のかつてからの持論ではありましたが、「年次改革要望書」でアメリカから要求されていた点も見逃すことはできません。

 また、9・11同時多発テロ以降のアメリカへの追従外交も、かつての枠組みを大きく逸脱するものでした。ブッシュ大統領が行った「テロへの報復攻撃」をいち早く支持したのは小泉首相でしたし、対米協力が強化されて自衛隊が海外に派兵されたことは、戦後の安全保障政策の大きな転換点になりました。小泉内閣は、政治においても経済においても対米追従を鮮明にし、その姿はまるでアメリカの属国のようでした(かつてブッシュ大統領夫妻の前でプレスリーの物まねをする小泉首相の姿がテレビで流されましたが、この映像は当時の日本の立場を象徴的に現わしていました)。

 以上のような外的自己の卑屈な態度は、もはや鹿鳴館時代を超えていると言ってもいいのではないでしょうか。

 

内的自己の変化

 その一方で、内的自己も戦後に変化を遂げました。ペリー・ショックによって外的自己と内的自己に分裂させられたとき、内的自己の主張は尊王攘夷でした。つまり、天皇を尊重し外敵を討つことを目指していました。太平洋戦争時は欧米の植民地支配からアジア諸民族を武力で開放し、大東亜共栄圏を確立することでした。これらはいずれも、武力で外国、特にアメリカを倒すことを目指していました。

 ところが、海外の戦地で敗戦を繰り返し、国土を焼き尽くされ、原爆を二発も落とされた日本は、さすがに戦闘でアメリカに復讐しようとは考えなくなりました。そこで戦後の内的自己は、様々な形で反米を実現しようとしました。

 その一つが、経済に専心し、経済でアメリカを打ち負かそうとしたことでした。日本人は脇目もふらずに働き、GDP自由主義社会で世界第2位になるまで発展しました。そして、アメリカがヴェトナム戦争で足をとられているなか、アメリカを凌駕する分野まで現れました。バブル絶頂期の1989年に、日本企業がニューヨークのロックフェラー・センターコロンビア映画を買収したとき、日本の野望は達成されるかに思われました。

 しかし、日本経済のバブルが破裂し、アメリカがグローバルスタンダードというアメリカ基準の経済ルールを世界に展開するに及んで、日本経済は長い停滞期を迎えることになりました。これは第二の敗戦と呼ばれ、日本経済の長期の停滞期は、失われた10年とも失われた20年とも呼ばれました。

 

左翼が内的自己に

 反米を目指した内的自己は、経済分野以外でもさまざまな形となって現れました。アメリカの占領後は、そして米軍基地が存在して半占領状態にある今でも、反米をあからさまに訴えることはできなくなりました。占領時代の教育はもちろん、マッカーサーが日本人の無意識に与えた影響も反米を訴えられない要因となりました(詳しくは、2018年5月のブログ『マッカーサーは日本社会にどのような足跡を残したのか』をご参照ください)。

 表立って反米を表明できない内的自己は、アメリカと対立するものと結びつきました。それが共産主義です。

 内的自己は、戦前は天皇を崇拝する右翼が代表していました。右翼と軍部が反米を主張していました。しかし、戦後には軍部は解体され、右翼の一部は親米になって外的自己に取り込まれました。国粋主義を譲らない右翼の人々だけが相変わらず反米であり、内的自己であり続けました(その代表が、日本の将来を憂いて自衛隊員の前で演説し、その直後に割腹自殺した三島由紀夫です)。

 その一方で、戦後に反米を主張するようになったのは、共産主義を熱烈に奉じる左翼の人々でした。そこには、共産主義を拡大させることによって、共産主義と対立していたアメリカを間接的に攻撃しようという意図があったと思われます。ちなみに、日本文化と共産主義は、意外に相性がいいと言えます。日本は縄文時代以来、無用な戦闘を避けるために平等な社会を目指してきた伝統があるからです(詳しくは、2018年3月のブログ『縄文人はなぜ戦争をしなかったのか』をご参照ください)。

 こうして驚くべきことが起こりました。戦後は、国粋主義を奉じる右翼と共産主義を奉じる左翼が、共に内的自己を代表するようになったのです。その隠された共通する主張は反米であり、共有されたものはアメリカへの攻撃性でした。

 

内的自己の攻撃性が噴出した安保闘争

 左翼である内的自己の攻撃性が最初に噴出したのが、1960年と70年の二度にわたって起こった安保闘争です。

 岸内閣が行った1960年の日米安全保障条約の改定は、アメリカ軍に基地を提供するためだけの条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものでした。それにも拘らず、改定に反対する声は瞬く間に広がりました。国会議員だけでなく、労働者や学生、および国内左翼勢力が結集して、日本史上空前の規模の反政府、反米運動に発展しました。

 特に1960年5月19日の国会で与党が強行採決を行った後には、連日国会に抗議デモが押し寄せました。6月にはいると、10日に大統領訪日の日程を協議するため来日したハガチー大統領報道官がデモ隊に包囲されて動けなくなり、アメリ海兵隊のヘリコプターで救出されたハガチー事件、15日に全学連が国会突入し、機動隊と衝突して東大生樺美智子が圧死した事件、16日アイゼンハワー大統領訪日中止などの事件が続き、19日には30万人を超えるデモが行われました。条約発効の23日に岸信介首相は辞意を表明し、翌月に内閣は総辞職しました。

 1970年には、日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動が起こります。東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモが全国で継続的に展開されました。こうした学生運動だけでなく、労働者による集会、デモ、ストライキが全国で展開されました。

 その一方で、新左翼諸派などの過激派による武装闘争が激化し、内部抗争が繰り返されたこともあって、次第に国民の支持を失って行きました。当時の佐藤内閣は1969年12月の総選挙でも議席を増やし、1972年まで政権運営を続けました。

 

日米安保条約マルクスも読んでいなかった闘争士たち

 ところで、これほど激しい盛り上がりを見せた安保闘争でしたが、闘争を行っていた当時の学生たちの多くは、日米安保条約の条文も、マルクス資本論もろくに読んでいなかったと言われています。では、運動はなぜこれほどの盛り上がりを見せたのでしょうか。

 それは安保闘争の目的が、日米安保の改定した内容を批判するためでも、資本主義の誤りを正して共産主義を実現しようとするためでもなかったからです。その目的は、アメリカを批判し、アメリカに追従する政府を批判し攻撃することでした。彼らは戦後日本における内的自己の代表として、アメリカとアメリカに追従する外的自己に激しい怒りを向け、アメリカと外的自己を攻撃するために安保闘争を行ったのでした。

 ちなみに、朝日新聞日米安保に対して、批判的な立場をとっていたのは言うまでもありません。(続く)