朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか(2)

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 戦前は戦争を煽る報道をしていた朝日新聞は、戦後は態度を一変して反戦、反政府に舵を切りました。北朝鮮は「地上の楽園」だとの喧伝に乗り、「中国の旅」では日本軍の残虐性を一方的に報道し、教科書問題では誤報を認めながらも「問題の本質は文部省の態度にある」と問題をすり替えました。

 そして、世界中で日本人の品位を貶め続けている、従軍慰安婦についての報道が始まります。

  

従軍慰安婦
 1982年の9月2日の朝日新聞に、従軍慰安婦問題の発端となった「済州島で韓国人女性を強制連行した」という吉田清治の記事が掲載されます。

 その後吉田は、1983年7月に『私の戦争犯罪朝鮮人強制連行』を出版します。同年10月には「韓国の丘に謝罪の碑」という見出しで朝日新聞が再び吉田を取り上げ、11月には「ひと」欄で吉田の謝罪碑活動を紹介します。

 続いて吉田は、天安市に私費で謝罪碑を建てるために訪韓し、土下座をしました。同年12月24日の朝日新聞は、「たった一人の謝罪」という見出しで、土下座をする吉田の写真とともにこの様子を掲載しました(以上、『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報・虚報全史』1)85‐87頁)。

 こうして朝日新聞の告発によって、従軍慰安婦問題追及の火ぶたが切られたのです。

 

軍の関与をスクープ

 1992年に、慰安婦問題は新たな展開をみせます。朝日新聞は1月11日の朝刊で、「慰安所 軍関与示す資料」という見出しの記事を掲載しました。記事では、慰安所の設置や従軍慰安婦の募集について、次のように記されました。

 

 「日中戦争や太平洋戦争中、日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛研究所図書館に所蔵されていることが十日、明らかになった」(『慰安婦と戦場の性』2)12頁)

 

 この記事は、慰安所の設置や慰安婦の募集が、民間の業者が自主的に行ったのではなく、軍によって監督、統制されていたことを示します。この記事の真偽は後に検討することとして、以前から知られていた資料が、この時に「発見」された理由はすぐに明らかになります。

 他の新聞も1日遅れで慰安婦問題の報道を追随し、韓国内のテレビやラジオなどでも朝日新聞を引用した形で詳しく報道されました。

 さらに、「五十年以上前の話で、はっきりした証拠はないが、何らかの関与があったということは認めざると得ないと思う」と語った渡辺美智雄外相の発言を歪曲し、ジャパン・タイムズが「この発言は、政府の責任者が日本軍によって第二次大戦中に何十万人ものアジア人〈慰安婦〉に対する強制売春に加担したことを、初めて認めたもの」と、語ってもいない内容を加えた悪質な解説文を付けて報道しました(以上、『慰安婦と戦場の性』13頁)。

 こうして朝日新聞の報道は、従軍慰安婦を国際問題にまで拡大させることになりました。

 

宮沢首相の謝罪

 朝日新聞が1月11日にこの報道を行ったのには、綿密に計算された狙いがありました。記事には次のように記されています。

 

 「朝鮮人慰安婦について、日本政府はこれまで国会答弁の中で「民間業者が連れて歩いていた」として、国家としての関与を認めてこなかった。(中略)国の関与を示す資料が防衛庁にあったことで、これまでの日本政府の見解は大きく揺らぐことになる。政府として新たな対応を迫られるとともに、宮沢首相の十六日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる」(『慰安婦と戦場の性』12頁)

 

 つまり、この報道は、政府にこれ以上ない打撃を与えようと、宮沢訪韓に合わせて行われたのです。秦郁彦は上掲所の中で、「一月十一日といえば、訪韓の五日前にあたる。今さら予定の変更もできず、かといって予想される韓国側の猛反発への対応策を立てる余裕もない。私はタイミングの良さと、「関与」という曖昧な概念を持ち出して、争点に絞った朝日新聞の手法に、『やるもんだなあ』と感嘆した」(『慰安婦と戦場の性』12頁)と述べています。

  果たして訪韓した宮沢首相は、荒れ狂う反日デモを目の当たりにし、青瓦台で行われた首脳会談では、8回もの謝罪と反省を繰り返したのです。

 

吉田清治の話はウソだった

 ところがこの騒動の発端であった吉田清治の話が、まったくの作り話であったことが明らかになります。

 吉田の著書『私の戦争犯罪』を読み返して不信の念を強めた秦郁彦は、本人に問い合わせたうえで、実際に済州島を訪れ、現地で吉田証言に基づいた調査を行いました。その結果、島民たちが「でたらめだ」と一蹴したことをはじめ、吉田証言を裏付ける事実が何一つ見つからないことが明らかになりました。この調査結果を秦は、1992年4月30日の産経新聞で発表しています(以上、『慰安婦と戦場の性』229‐248頁)。

 それにも拘らず、朝日新聞は同年の5月24日に、吉田清治が韓国に謝罪の旅に出かけ、「今こそ自ら謝りたい」と宣言していることを記事にしています。

 

河野談話

 翌1993年に、一連の騒動はピークを迎えます。8月5日に各新聞は、慰安婦問題に関する第二次調査結果と、それに関連した河野洋平官房長官談話を掲載しました。従軍慰安婦問題の方向を決定づけた、いわゆる河野談話です。

 朝日新聞河野談話の内容を、「慰安婦〈強制〉認め謝罪-総じて意に反した」という見出しで伝えました。ここから、「従軍慰安婦は本人の意に反して強制的に連行された」と日本政府が認め、この見解が真実であると日本人自身でさえ捉えるようになりました。

 ところが、慰安婦問題に関する調査では、強制性を裏付ける資料は存在しませんでした。強制性の根拠となったのは、慰安婦だった女性たちの証言であり、しかもこの証言の裏づけ調査は行われていませんでした。

 では、なぜ慰安婦だった女性たちの証言が真実だと認定されたかと言えば、それは河野官房長官の次の言葉がすべてを現わしています。

 

 「文書はなかった。けれども、本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあった」(『慰安婦と戦場の性』256頁)

 

 これは、本人が強制だと言ったから強制だったという説明であり、客観性のある調査ではなく単なる聞き取り調査にすぎません。この考え方の背景には、被害にあった人が嘘を言うはずがないという盲目的な信頼があります(これは過信にすぎないことが、その後に明らかになります)。

 これと同じ構造を、わたしたちはすでに見てきました。それは本多勝一の『中国の旅』です。本多は、日本軍が残虐な行為を行ったという中国人被害者の言葉を、裏づけ調査をすることのなくそのまま紙面で発表しました。その結果、本多は過去の日本軍の残虐性を暴いた立派な日本人という評価を中国では得ましたが、そのおかげで罪のない日本軍人や沈黙を守った多くの日本人の評価を貶めたのです。

 同じように、河野洋平は韓国や中国では立派な政治家として評価されましたが、日本軍だけでなく現在の日本人を、道徳心のない卑劣な民族だと認識される端緒を作りました。

 

軍の関与とはどういう意味だったのか

 先に朝日新聞のスクープ、「慰安所 軍関与示す資料」という記事を紹介しました。このスクープから、慰安婦が軍の強制によってなされたという認識が広がって行きました。ところで軍の関与とは、どのような内容を指しているのでしょうか。

 吉見義明の『従軍慰安婦資料集』3)には、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」として次のように記されています(カタカナをひらがなにし、漢字を現代のものにするなど分かりやすくしてあります)。

 

 支那事変地における慰安所設置のため、内地においてこれが従業婦等を募集するにあたり、ことさらに軍部了解等の名義を利用しために軍の威信を傷つけ、かつ一般民の誤解を招く虞(おそれ)あるもの、あるいは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題惹起する虞(おそれ)あるもの、あるいは募集に任ずる者の人選適切を欠くために募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取り調べを受ける者ある等注意を要する者少なからざるに就いては、将来これらの募集等に当たりては派遣軍において統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、その実施に当たりては関係地方の憲兵および警察当局との連携を密にし、もって軍の威信保持上並びに社会問題上遺漏なきよう配慮相成る度依命通牒す」(『従軍慰安婦資料集』105‐106頁)

 

 以上は、慰安婦を募集するにあたり、軍の名義を利用して軍の威信を傷つける者や、不適切な方法で募集したり、誘拐に類することをして警察に取り調べを受ける者までが出たため、今後は地方の憲兵や警察と連携して社会問題を起こさないように配慮しなさいという内容です。

 つまり、日本軍が従軍慰安婦の募集を監督、統制していたのは、誘拐まがいの強制連行が起こらないように関与したという意味だったのです。しかし、今や、軍の関与をこのような意味で捉えている人は皆無だと言えるでしょう。

 さらに、他の資料では、「性病の予防のために、適切なる指導をし、慰安所の衛生管理を遺漏なくするように」(同172頁)、「掠奪や強姦を厳重に取り締まるとともに、慰安設備を整えるように」(同210頁)など、性病の拡がりや強姦を防止するために慰安所の管理を行うように指示していたことが記されています。こうした目的での慰安所の設置は、ドイツでも行われていました。

 戦場につきものの性の問題がレイプや虐殺に繋がらないために、軍の関与自体はどうしても必要だったと言えるでしょう。 

 

 慰安婦問題のその後

  河野談話の後に、慰安婦問題は国連の人権委員会で取り上げられ、世界的な問題になりました。さらに韓国の人々は、従軍慰安婦問題を日本を非難するための格好の材料として利用しました。そのために作られたのがあの慰安婦像です。

 慰安婦像は日本軍の残虐性と非道徳性を示す象徴として、韓国各地に建てられましたが、それだけでなく日本大使館前にも堂々と設置されています。さらにはアメリカ、カナダ、オーストラリア、中国、ドイツなど海外にも次々と設置され、現在世界で50を超えるまで増えています。

 こうして朝日新聞がねつ造した従軍慰安婦問題は、その狙い通り世界中で問題視され、今も日本人の品位と誇りを貶め続けているのです。(続く)

 

 

文献

1)花田紀凱責任編集:財務省「文書改竄」報道と朝日新聞 誤報・虚報全史.飛鳥新社,東京,2008.

2)秦 郁彦:慰安婦と戦場の性.新潮選書,東京,1999.

3)吉見義明編集:従軍慰安婦資料集.大月書店,東京,1992.