朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか(1)

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 最近の朝日新聞がメディアをリードしてるのが、森友・加計問題です。安倍首相および昭恵夫人の関与を追及するこれらの報道は、すでに1年以上にわたって続いています。
 しかし、安倍首相および昭恵夫人が法的な問題を犯しているわけではなく、これらは道義的な問題、ありていに言えば「総理の知り合いがいい思いをしてずるいじゃないか」という、国政にとってあまり重要とは思えない問題ではないでしょうか。
 日本国外では北朝鮮の核開発・ミサイル開発や中国の海洋進出、国内に目を移せば社会の超高齢化や財政の悪化など、諸問題が山積しています。野党が朝日新聞をはじめとするマスコミ報道の尻馬に乗って、森友・加計問題を国会で追及し続ければ、国益が損なわれれていくことは明らかなように思われます。
 それなのになぜ朝日新聞は、このような報道を延々と続けるのでしょうか。

戦前は戦争を煽っていた
 朝日新聞国益に反するような報道を行うのは、今に始まったことではありません。現在からは想像もつきませんが、朝日新聞は戦前は戦争を煽る報道を行っていました。
 以前のブログで指摘したように、満州事変以降、新聞各社は戦争を煽る報道を続けて部数を伸ばしました(2018年5月のブログ「日本はなぜアジアに侵攻したのか」をご参照ください)。朝日新聞も例外ではなく、日中戦争へとなだれ込んでいく人々の心理を代弁し、戦いを求める民衆を鼓舞し続けました。
 この方針は、太平洋戦争でも続けられます。
『太平洋戦争と新聞』1)によれば、戦時下の新聞は戦争遂行、勝利のための一大プロパガンダ工場と化しました。朝日新聞もその例にたがいませんでした。朝日新聞社の社内向け『朝日社報』をみると、毎号トップに、勇ましく叱咤激励する村山長挙社長の訓示が以下のように述べられています。

 『新聞を武器として米英撃滅まで戦い抜け』(昭和18年1月10日号)では、

 「国民の士気を昂揚し、米英に対する敵愾心を益々興起せしめて大東亜戦争を勝ち抜くべく指導することは、本年におけるわれわれ新聞人に課せらえた最も大なる使命の一つだと信じるのであります」(『太平洋戦争と新聞』400頁)

 翌昭和19年3月号では、朝日新聞の役割を次のように総括しています。

 「大東亜戦争勃発するや、本社は直ちに『国内是戦場』『挙社応召』の決意を固め、村山社長、上野会長、各重役をはじめ全従業員決起して『新聞も兵器なり』との信念を堅持して、報道報国のために挺身、朝日新聞の国家に対する使命完遂に全力を傾倒しつつあり、新聞の決戦体制を整えるために、率先して機構の大革新を断行した。紙面は活気旺盛、真に思想戦の武器としての威力を遺憾なく発揮している」(『太平洋戦争と新聞』401頁)

 このように戦前の朝日新聞は、戦意高揚を目指し、「新聞も兵器なり」という信念に基づいて、「報道報国」のためのに身をささげていたのです。
 戦争が高まる民意に押されて始められたにせよ、戦争に向かう社会の空気を煽った新聞各社の、そして毎日新聞と部数を競っていた朝日新聞の責任は大きいと言えるでしょう。

戦後は態度を一変
 朝日新聞は、戦後は態度を一変させます。戦争中は「米英に対する敵愾心を益々興起せしめ」ることに躍起になっていたのにも拘わらず、アメリカの占領政策下では、GHQの言語統制に従っただけでなく、最終的にはマッカーサーを礼賛しています。
 マッカーサー解任が発表された翌日、朝日新聞は次のような社説を掲載しています。

 

 「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」(『敗北を抱きしめて[下]』2) 403頁)

 朝日新聞によれば、戦前には鬼畜だったアメリカ人は、戦後には正しい道に親切に導いてくれる父親のような存在へと180度姿を変えたのでした。

反戦と反政府に舵を切る
 朝日新聞が戦後に態度を一変させたのは、アメリカに対する態度だけではありません。軍の暴走を追認し、大本営発表を垂れ流した反省からか、戦後には反戦と反政府の態度を貫くようになりました。
 しかし、その態度が行きすぎたのでしょうか。朝日新聞は数々の誤報を冒すことになります。
 1959年には「北朝鮮は地上の楽園」とする朝鮮総連の喧伝に乗り、在日朝鮮人とその家族を北朝鮮に帰国させる「北朝鮮帰国事業」に賛同する記事を発表しました。この報道に影響されて北朝鮮に帰国した人々は、楽園ではなく「地上の地獄」を経験することになった可能性が高いでしょう(当時はほぼすべてのマスコミが北朝鮮帰国事業に賛同していましたが、北朝鮮から脱北者が相次ぐようになってからも、朝日新聞北朝鮮の実情を報道しませんでした)。

中国の旅
 1971年には本多勝一が、朝日新聞に「中国の旅」を連載します。これは「日本軍による虐殺事件のあった現場をたずね歩いて、生残った被害者たちの声を直接きいてみたい」という目的で始まりました。ところがその内容は、中国側が用意した"証人"の声を聞いただけで確認のための取材もせず、毎回残虐で非人道的な日本軍とその行為が語られていくというものでした(以上『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報・虚報全史』3)11頁)。
 そのため、本当にあったのかどうかも定かでない日本軍の残虐性が、日本のみならず世界中に喧伝されました。日本軍はとてつもなく悪いことを行ったという評判が独り歩きし、それは日本人の価値を貶め、日本の国益を大きく損なうことに繋がっていったのです(それとは反対に、告発を行った本多勝一及び朝日新聞の評価は高まることになりました)。

教科書問題
 1982年6月に、文部省が教科書検定で、高校の歴史教科書の中国華北地域への「侵略」を「進出」に書き換えさせたと新聞各紙が一斉に報じました。この報道は中国、韓国から大きな反発を招き、日本が戦前に戻ろうとしているという印象を世界に与えました。
 中国政府から公式の抗議を受けた政府は、当時の鈴木善幸首相が「記述変更」で決着しようとし、「日本は過去に於いて韓国・中国を含むアジアの国々に多大な損害を与えた」と宮澤喜一官房長官が政府見解を発表しました。ところが、「侵略」を「進出」に書き換えさせたという事実がないことが後に判明し、新聞報道が誤報だったことが明らかになりました。
 このときに他紙は訂正とお詫びを掲載しましたが、朝日新聞は「読者にお詫びしなければなりません」としながらも、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにあるのではないでしょうか」と問題のすり替えを行っています(『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報・虚報全史』13頁)。
 ここには「間違った文部省の姿勢を正すためには、誤報は大した問題ではない」という、報道機関としては信じがたい態度が垣間見られます。そして、自らの誤報が日本にどれだけ迷惑をかけたのかという事実に全く無頓着な、朝日新聞のおごりを見て取ることができるのです。
 次回のブログでは、誤報のクライマックスともいえる、従軍慰安婦問題について取り上げてみたいと思います。(続く)

 

 

文献

1)前坂俊之:太平洋戦争と新聞.講談社学術文庫,東京,2007.

2)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.

3)花田紀凱責任編集:財務省「文書改竄」報道と朝日新聞 誤報・虚報全史.飛鳥新社,東京,2008.