無差別殺傷事件はなぜ起こるのか(2)

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 前回のブログでは、秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大の成育環境について検討しました。加藤の幼少時代はまさに、母親からの驚くべき虐待と父親からの救われることのない無関心に、常に晒されていました。
 こうした養育環境が個人の精神形成にどうのような影響を与えるに至ったかを検討するために、まず二つの比較対照例を挙げてみましょう。

 

シュレーバー症例」の養育環境
 自らの妄想体験を一冊の本にまとめて出版したことで有名なダニエル・パウルシュレーバーは、精神医学では最も多く引用される症例の一人です。彼の養育環境については、モートン・シャッツマンが『魂の迫害者』1)の中で詳細に検討しています。
 シュレーバーの父親は、ドイツの医学および教育界に絶大な影響力を持って指導的役割を果たした、高名な医師兼教育思想家でした。彼の活躍した19世紀半ばは、唯一、絶対の神の存在が揺らぎ始めていた時代でした。

 神への信仰が薄れつつあるなかで、人々は、生きる指針を教育に求めます。そこでは、神の威光は特定の人間に移され、権威主義的、家父長制的原理が用いられていました。つまり、神の代理としての権威を有した父親が、家庭の中で子どもを服従させ、生きる指針を教育することが、社会の要請として求められるようになっていたのです。

 

美しい子ども

 この社会の要請を、最も純粋な形で先鋭化して表現してみせたのが、ダニエル・ゴットリープ・モーリツ・シュレーバーその人でした。当時の社会から評価され、賞賛を受けたのは、その時代が彼を必要としたからです。
 彼は、「魂の真の上品さ」を身につけた「美しい子ども」を育て上げるために、生後5ヶ月か6ヶ月の時期から子どもに徹底したしつけを施すことを推奨しました。彼は、「癖になっては困るようなことはすべて、子どもに禁じ、子どもから遠ざけよ。そして、身につけなければならないようなことはすべて、子どもに辛抱強くたたき込め」と訴えます。

 そして、「目標を達成するためのもっとも一般的に必要な条件は子どもの無条件の服従である」と述べ、「もっとも重要なことは、必要なら体罰を使ってでも、子どもがふたたび完全に屈服するまで不服従を押しつぶすことである」と指摘しています。さらに彼は、子どもに正しい姿勢を身につけさせるという目的で、「体を自由に動かせない器具」まで考案しているのです。

 

育児に無関心な母親

 一方、シュレーバーの母親については明確には分かりませんが、シュレーバーの妄想の中に「捨て置かれる」、「朽ち果てるまで放置される」といった表現が何度も出てくることから、充分な愛情を得られず、母親と親密に接することができなかった養育環境が垣間見えます。

 それは、当時のヨーロッパ社会において、多くの母親が育児に無関心で実質的な子育てを放棄していたという事情からも推察されます(詳しくは、拙著『統合失調症はどこから来てどこへ行くのか』2)第Ⅴ章をご参照いただければ幸いです)。

 

未開社会における養育環境
 もう一つの対照例は、未開民族の養育環境です。

 多様化し複雑化した現代社会においては、親の役割や育児の内容もまた複雑化しており、未開社会の子育てとそのまま比較することは適切ではないかもしれません。しかし、未開民族では社会が複雑化していないがゆえに、彼らの子育ては最単純モデルとして活用することができるのではないでしょうか。

 以下は、2010年5月にNHKで放送された番組、「プラネットべービーズ『ペルー 叱らない森の子育て』」からの抜粋です。

 

叱らない子育て

 ペルー、アマゾンの先住民アシャニンカは、精霊を信じて暮らす森の民です。彼らは、薬草の知識を生かし、畑でイモを育てながら自給自足の生活を送っています。
 アシャニンカの子どもは、いつも母親の側にいます。子どもは親の隣で親のすることを真似ます。わずか3歳で大きなナイフを片手にイモ掘りを手伝う子どもに、母親はナイフを取り上げることも、その使い方を教えることもありません。子どもは見よう見まねでナイフを振り回し、大地を掘ります。

 母親はそんな子どもを注意することも、叱ることもしません。子どもが上手くできても、誉めることさえありません。母親はただ傍らで微笑み、子どもを見守っています。そして、子どもがしてくれたことに対し、最後に「ありがとう」とだけ言うのです。

 

民族の伝説を語り聞かせる父

 3歳の息子が母親の仕事の邪魔をしても、姉にちょっかいを出しても誰も叱りません。代わりに祖母がやってきて、薬草の風呂を準備します。泣いて嫌がる子どもを、祖母が薬草の風呂に入れ、清めます。アシャニンカでは、子どもが悪さをしたり手伝いをしないのは、悪い精霊のせいだから薬草で追い出せばいいと考えます。そして、風呂が終わった後に、両親が子どもを慰めるのです。
 アシャニンカの父親は、「子どもは叱る必要はありません。子どもは本来純粋で、無垢な存在です。子どもを叱ると憎しみがこころの中にたまり、親や家族に対して悪い感情を持ちます。そんな大人にならないように、叱らないのです」と話します。そして父親は、夜には満天の星空のもと、自分たちの民族の伝説を子どもたちに語り聞かせるのです。

 

母性の重要性

 ここで秋葉原無差別殺傷事件、そして加藤が執筆した本の内容に話を戻しましょう。

 加藤は『解』3)の中で、「自分が無い」とか「家族が無い」と繰り返し記しています。これは一体、何を意味しているのでしょうか。この意味を解き明かすためには、出生後の子どもの精神状態にまで遡ってみる必要があります。
 母親の子宮内にいるときの胎児は、まさしく母子一体の状態にあり、文字通りの意味で自他の区別を持ちません。

 出産という出来事によって子どもは、母親の胎内から外の世界へと投げ出されます。この事態を充分に認識できない子どもの精神世界では、自他は混然として分離できない状態にあります。やがて、子どもが他者や周囲の世界の存在をおぼろげに認識し始めると、自他の区別が生まれ始め、自我の原型と対象世界の原型が作られます。この時期に、子どもが世界からどのような扱いを受けるか、または子どもにとって世界がどのように映るかが、自我と対象世界の形成に大きな影響を与えると考えられます。
 その際に、子どもと対象世界の関係に重要な影響を与えるのが、母性です。人間の子どもは、母親の庇護がなくては生存できない無力な状態で出生します。すべてが満たされていた胎内環境から出産後の環境への激変は、無力な子どもに耐え難い不安を引き起こします。母性は、この不安を解消させるために最も重要な役割を果たすのです。

 

信頼できる対象

 豊かな母性が与えられたならば、外界へと突然投げ出された子どもの不安は最小限にとどめられます。

 たとえばアシャニンカのように、母親がいつも傍らにいて、無条件に見守ってくれていれば、胎内に及ばないまでもそれに近い環境が再現されるでしょう。しつけは祖母が行い両親は叱らない子どもへの接し方は、平穏で受容的な養育環境を作り上げるでしょう(しかも、祖母が与える罰は、子供を薬草の風呂に入れいることでした。子どもは泣いて嫌がりますが、見方によっては気持ちのいいこと、少なくとも健康には悪くないことのように見えます)。

 豊かな母性に包まれた子どもにとっては、世界は慈愛に満ちた信頼できる対象として認識されます。また、子どもは対象から大切にされ、家族にとってなくてはならない存在であると感じられます。これらの感覚は将来、自尊心を育んで自我に存在根拠を与え、世界に対する信頼感を形成するための核になると考えられます。

 

自らを死へ追いやる対象

 逆に、母性が乏しければ、安全な胎内から危険に満ちた世界へと投げ出された子どもの不安は、解消されるどころか増幅されます。

 無力な子どもにとって、母親からの世話を受けられないことは、死へと直結する事態になるからです。このとき子どもは、死の恐怖におののき、自らが消失する不安に苛まれます。そして対象世界は、自らを死へと追いやる存在として映るのです。

 次回のブログでは、この状況をもう少し詳しく検討しましょう。(続く)

 

 

文献

1)モートン・シャッツマン(岸田 秀 訳):魂の殺害者 教育における愛という名の迫害.草思社,東京,1975.
2)柴田明彦:統合失調症はどこから来てどこへ行くのか 宗教と文化からその病理をひもとく.星和書店,東京,2011.
3)加藤智大:解.批評社,東京,2012 .