無差別殺傷事件はなぜ起こるのか(1)

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 6月9日の夜、東海道新幹線「のぞみ」で、刃物を持った22歳の男が突然乗客を襲い、3人が死傷する事件が起きました。この事件の全容はまだ明らかになっていませんが、容疑者の男は、「誰でもよかった」と述べているとのことですから、この事件は無差別殺傷事件であると言えるでしょう。

 今からちょうど10年前の2008年の6月8日にも、同様の事件が起こりました。17名もの人々が殺傷されたこの事件は、「秋葉原無差別殺傷事件」と呼ばれています。事件を起こし、2015年に最高裁で死刑が確定している加藤智大は、なぜ事件を起こすに至ったのかを、『解』1)という本にまとめて出版しました。

 今回のブログでは、加藤が自ら執筆したこの本と、すでに明らかになっている裁判記録をもとに、無差別殺傷事件がなせ起こったのかを検討してみたいと思います。

 

秋葉原無差別殺傷事件とは

 この事件の概要は次の通りです。

 2008年6月8日、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員の加藤 智大(かとう ともひろ、犯行当時25歳)の運転する2トントラックが、赤信号を無視して突入し、歩行者5人を次々に跳ね飛ばしました。

 続いて加藤は車を降り、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人ら12人を、所持していたダガーという諸刃の短剣で立て続けに殺傷しました。

 こうしてわずか10分ほどの凶行によって、7人の死者と10人の負傷者を出すことになったのです。

 

感情が感じられない

 『解』を一読してまず率直に感じることは、加藤智大という(執筆当時29歳の)青年に、激しい心の動きが感じられなかったことです。7人を殺害し10人に重傷を負わせた無差別殺傷事件に対する感情はもとより、親から受け続けた虐待や、その後に起こった対人関係のトラブルに対する生の感情が、この本の中ではほとんど語られていません。いや、単に語られないのではなく、これらの感情が彼自身に感じられていないかのようです。
 その一方で彼は、「事件の原因は、私が掲示板に依存していたこと、掲示板でのトラブル、トラブルが起こったときの私のものの考え方の3つである」と自己分析してその内容を詳細に説明し、「どうすれば似たような事件を未然に防ぐことができるか」を解明しています。もちろんこの洞察は、彼なりに悩み、苦しんで導き出した結論なのでしょう。しかし、彼の洞察の底流に流れているはずの感情が理解されなければ、事件の本質に迫ることはできないのではないでしょうか。

 

心のバランスを崩してしてしまう

 ただ、それは困難な作業でもあります。もしその激しい感情を無理に引き出そうとするなら、彼のこころのバランスを崩してしまう危険があるからです。それほど微妙なバランスの上に、彼の精神は保たれているように思われます。

 それでも『解』の精神分析が必要なのは、この事件の中に、現代の日本社会に蔓延する問題点が凝縮されている可能性があるからです。この問題点を明らかにすることこそ、この事件で払われた尊い犠牲に報いる一助となるはずであり、『解』を著した彼の意思にも添うことだと考えられます。

 

養育環境
 この事件を理解するために見逃すことができないのが、加藤智大の養育環境でしょう。加藤本人は、事件に至った原因を両親に責任転嫁するつもりはないからと、『解』の中では、親から受けた偏った教育について多くを語っていません。そこで、事件の公判記録も参考にしながら、彼の成育歴を振り返ってみることにしましょう。
 加藤智大は1982年に、二人兄弟の長子として出生しました。母親は有名高校を卒業したものの大学には進学せず、地元の金融機関に就職しました。両親は職場結婚で、加藤が5歳のときに家を新築し、一家で移り住むことになります。理由は分かりませんが、この頃から父親が酒を飲んで家に帰るのが遅くなり、暴れることや、帰宅しないこともあったようです。そのため母親は、イライラして子どもたちに八つ当たりすることが度々ありました。加藤が中学生になると、夫婦仲はさらに悪化したといいます。

 

教育か虐待か

 小さい頃のことで一番記憶にあることを問われて、加藤は3歳頃母親からトイレに閉じこめられたことを挙げています。引っ越した後には、母親が夕食の準備をしてるときにいたずらをすると、首の後ろを押さえつけられて2階の窓から落とされそうになりました。また、お風呂で九九を暗唱させられ、間違うと湯船に沈められました。泣くと口にタオルを詰められ、その上からガムテープを貼られました。泣くたびに母親が作ったスタンプカードにスタンプを押され、10個たまるとサウナのような屋根裏部屋に閉じこめられました。冬に雪で靴をぬらして帰宅したときには、裸足で雪の上に立たされといいます。
 これだけではありません。食べるのが遅いと、食べきれなかった食事を新聞の折り込みチラシにぶちまけられ食べるように言われます。食器洗いが終わってもまだ食べていると、今度はチラシの上のものを無理矢理口に詰め込まれました。一度だけ、直接廊下の床に食事をぶちまけられたことがありました。その際に、父親は見て見ぬふりをしていたといます。父親の部屋で漫画を見ていたら、食事を抜かれたこともあったといいます。
 中耳炎になった際には、「耳が痛い」と母親に訴えましたが、「痛いふりをしている」と言われて取り合ってもらえませんでした。小学校高学年までおねしょが止まないと、布のオムツをはかされ、わざわざ外の物干し竿に干されました。私服を自分で選んでタンスの上に置いておくと、母親は無言で床に投げ捨てました。中学で女の子とつき合っていたときに、机の引き出しの中にあった手紙を見られ、母親からつき合うのをやめるように言われています。

 

夢を押し付けられる

 その一方で、母親は自分の夢を子どもに押しつけています。加藤は一緒に遊んでもらった大工にあこがれの気持ちを持つようになり、「大工さんになりたい」と母親に伝えたところ、「何でそんなものになりたいの」と言って怒られました。

 引っ越しの前にアパートの駐車場でおもちゃの車に乗って遊んでもらったことが、唯一と言っていい父親との良い思い出だったようです。そのためか、加藤が「レーサーになりたい」と言った際にも、母親は「そんなものになるべきじゃない」と一蹴しました。無理矢理勉強させられ、テストでは100点を取って当たり前で95点では怒られました。加藤は小学校低学年のときから、母親に北海道大学の工学部に行くように言われて育ちました。

 

反抗しきれない

 以上のような虐待とも言える母親の養育態度に対して、小学校のころの加藤は、反抗するよりも泣いていたといいます。中学生になると物に当たって暴れたり、部屋の壁に穴を空けたりしました。中学2年生のときには、成績のことで口論となり、一度だけ母親の頬を殴っています。

 そのときの気持ちを加藤は、「悲しかったです。何でこうなっちゃったんだろうという気持ちでした。涙が流れました」と語っています。それ以降、母親は加藤とあまり口をきかなくなりました。
 母親と同じ高校に進んだ加藤は、成績が下がったことを機に進学する大学を変更したいと申し出ます。すると母親から、「そんなとこなら車を買ってあげない」と言われました。

 中学の頃に「大学に行ったら車を買ってあげる」と約束されていた加藤は、約束を守ろうとしない母親に対してあえて大学に行かない途を選び、高校卒業後は専門学校に進みました。

 

親は教育だと

 母親自身は、「子どもたちに強く当たったのは、私としてはあくまでしつけの一環と思っていました。単に不満のはけ口ではなく、なにがしか子どもたちにも理由があったと思います。ただ、そこまでしなくても良かったとも思います」と語っています。

 また、新聞記事によれば父親は、「よそ様と比べて教育がそれほど違っていたとは思いません。子どものことは妻がやると決めていて、口を出すのはよくないと思った。ただどこの家庭でもあることでは」とコメントしています。
 加藤の幼少時代はまさに、母親からの驚くべき虐待と父親からの救われることのない無関心に、常に晒されていたと言えるのではないでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)加藤智大:解.批評社,東京,2012 .