日本人が誇りを取り戻す日は来るのか(2)

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 これまでもブログで検討してきたように、「バブルショック」は日本人の自尊心を大きく打ち砕きました。バブル崩壊が単なる経済的な問題にとどまらず、日本人の精神的な問題にまで大きな影響を与えたのは、そこに至るまでの長い歴史が存在するからです。その歴史を振り返ってみましょう。

 

経済的な成功を目指した日本人

 戦後の日本人にとって、経済は復興の象徴であるとともに、自尊心の回復の象徴でもありました。太平洋戦争で敗戦を重ね、主要都市に絨毯爆撃を受け、原爆まで投下された日本人は、国土だけでなく自尊心までも徹底的に破壊されました。まさに「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」ながら敗戦を受け入れなければなりませんでした。
 武力によって完膚無きまでに敗れた日本人は、戦後は経済の成長に舵を切ります。官民一体となって経済の発展にのめり込んだ日本は、わずかな期間で敗戦からの復興を果たしたばかりか、驚異的な経済成長を続けて、自由主義経済圏で世界第二位の経済大国に発展しました。
 日本の驚異的な経済発展が、単なる戦後からの復興や、経済的な豊かさを目指したものではないことは明らかでしょう。そこには、戦争で破壊された自尊心を取り戻そうとする涙ぐましい努力がありました。そのなりふり構わない姿は、欧米各国から「エコノミックアニマル」と揶揄されることもありました。しかし、そんなことは日本人には馬耳東風でした。日本人はただ、日本民族の優越性を経済を通して世界に示したかったのです。「経済は一流、政治は二流」などと自らを称しながら、日本人は経済的な成功に悦に入っていました。

 

第二の敗戦によるショック

 日本経済が成長を続けると、ついにアメリカ経済を凌駕する分野まで現れ始めました。戦争によって破壊された日本人の自尊心は、この時期に至って劇的に回復します。さらに、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われて、日本人は舞い上がりました。日本式の労働形態や経営方式こそ、最も優れたものだと日本人は自負するようになりました。日本社会全体を覆ったこの高揚感が、この後のバブル経済を生むことに繋がりました。
 ところが、日本人が自尊心を回復できた時間は長くはありませんでした。バブルが崩壊すると、日本経済は長い停滞期に入りました。一方、アメリカはグローバルスタンダードと称するアメリカ式の経済ルールを世界に行き渡らせ、世界経済の覇権を取り戻すことに成功しました。日本経済がアメリカを打ち負かしたかに見えた時代は、バブルと共に潰えました。これは第二の敗戦と呼ばれました。日本は戦争だけでなく、経済でもアメリカに敗れ去ったのです。

 日本人は第二の敗戦によって、再び自尊心を打ち砕かれました。この自尊心の喪失は、深刻な問題を孕んでいました。それはこの問題の根源が、第一の敗戦、すなわちアメリカとの戦争における敗戦だけにあったわけではないからです。この問題の根は、日本建国の起源にまで繋がっていました。

 

ペリーショック

 アメリカと戦争に至った原因は、開戦の90年前にまで遡ります。鎖国政策を敷いていた日本は、アメリカの東インド隊司令官であったペリーに開国を迫られました。黒船によって示された技術力と軍事力に圧倒された幕府は、200年以上に渡って続けてきた鎖国政策を解き、アメリカとの間に屈辱的な不平等条約を結びます。この事件の衝撃は計り知れず、265年続いた江戸幕府は倒れ、新たに明治政府が樹立されました。明治以降の日本は、この屈辱体験の記憶を無意識の中に抑圧し、富国強兵政策を掲げて国を富ませて軍事力を蓄えてきました。日本人はこの屈辱感を晴らすために、アメリカに対して戦争を仕掛けたと言っても過言ではないでしょう。
 そのため緒戦における日本軍の快進撃は、日本人に言いようのない達成感をもたらしました。しかし、その後の戦局は悪化し、日本社会は壊滅的な被害を被って終戦を迎えます。日本人はこうして、アメリカに対して復讐を遂げることに失敗したばかりか、屈辱的な敗戦とその後の占領を強いられることになったのです。

 

建国時における危機感

 この屈辱感には、さらに遠い昔に同様の経験がありました。その発端は7世紀にまで遡ります。

 当時の日本には、危機的な状況が存在していました。大陸に唐という強大な国家が出現し、九州と目と鼻の先にある朝鮮半島にまで影響力を及ぼすようになりました。ヤマト政権は百済の復興を援助するために大軍を送りましたが、白村江の戦い(663年)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫しました。危機感を強めたヤマト政権は、諸豪族との連携を強めて国防に専念する一方で、唐の制度を模倣して律令制度を構築しました。そして、ヤマト政権の大王(おおきみ)は「天皇」号を名乗り、それまでの「やまと」や「倭(わ)」に替えて「日本」という国号を定めました。これらの事実が唐の皇帝に認知されたことによって、日本はようやく国家としての独立を果たしたのです。

 このときの唐は、戦いに敗れて流れ着いた人々がようやく創り上げた安住の地である倭の国を、滅ぼしかねない存在でした。唐との戦いに敗れた屈辱感、そして安住の地を唐に征服されるのではないかという不安感・危機感は、日本人の無意識の中に強く刻み込まれることになりました。

 

和の文化の根底に流れるもの

 こうした敗戦に対する屈辱感は、実は日本民族が形成される過程でも積み重ねられてきています。以前のブログで検討したように、日本人は戦いに敗れて日本列島にたどり着いた人々の末裔であったと考えられます。そのため日本人の無意識の中には、戦いに対する忌避感と、戦いに敗れたことに対する屈辱感が脈々と受け継がれています。この忌避感と屈辱感は、折に触れて無意識の中から頭をもたげ、日本人の行動に重要な影響を与え続けました。
 このような歴史を持つ日本人は、自らの自尊心の根拠をどこに置いてきたのでしょうか。日本民族が戦いに敗れ続けて日本列島にたどり着いた人々の集合体であるとすれば、戦いの勝利に自尊心を置くことはできません。そのため日本人は、戦いに勝利することではなく、戦いを避けることに自尊心の根拠を求めてきました。戦いを避けて平和を尊重することが、日本人の誇りだったと考えられます。和の文化とは、まさにその結晶として完成した文化に他ならないのです。(続く)