日本はなぜ奇蹟の復興を遂げられたのか(2)

 

 

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 奇跡の復興を遂げた日本は、さらに経済発展を続けます。そしてアメリカの経済を脅かすまでに成長し、ついに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称されるまでになりました。日本経済がこれほどまでに発展した背景には、日本社会の背後に渦巻く、先の戦争に対する屈辱感がありました。

 今回のブログでは、日本経済が頂点に登りつめるまでの要因と、その後の長い停滞へと続く萌芽ともいうべき要因について検討したいと思います。

 

アメリカの凋落

 アメリカは、1960年代後半になると、ヴェトナム戦争に伴う軍事費の重圧が経済を圧迫し、ドルの国際的信用も急落して行きます。1971年に、ドルと金の交換を停止することを柱に据えたアメリカの経済政策によってニクソン・ショックが起こり、さらに73~74年と79年の二回にわたる石油高騰がもたらしたオイル・ショックによって、先進工業国における高度経済成長は終焉を迎えました。

 

ジャパン・アズ・ナンバーワン

 世界経済が低迷を続ける中で、日本はいち早く不況からの脱出に成功し、1979(昭和54)年の第二次石油危機以降には、経済の安定成長を軌道に乗せました。1985(昭和60)年のプラザ合意によって一層の円高が進み、輸出産業は一定の損失を被りましたが、国内需要の増加に伴って経済は回復しました。

 その後の輸出産業の不況克服によって、日本経済はさらに発展を続けます。こうして日本の経済成長は維持され、債務国に転落したアメリカを尻目に、1987(昭和62)年には、日本はイギリスを抜いて世界最大の債権国になりました。そして翌88年には、国民一人あたりのGNPがついに世界のトップに立ったのです。
 日本経済はこのとき、まさに絶頂期にありました。1979年にエズラ・ヴォーゲルが著した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、日本人の自尊心を大いにくすぐりました。日本人は自信を深め、経済的な成功にのめり込んで行きました。

 

バブル経済

 1986(昭和61)年12月から1991(平成3)年2月までに4年3ヶ月続いた好景気は、後に「バブル景気」と呼ばれます。土地は必ず値上がりするという「土地神話」に支えられて投機熱が加速し、地価や住宅価格の高騰が起こりました。大規模な建設プロジェクトやリゾート地開発が推進され、これが地価上昇に拍車をかけました。空前の好景気によって、財テクと消費の過熱がもたらされました。民間企業は営業規模を拡大したり、多角経営に乗り出すようになりました。本業で着実に利益を上げるのではなく、土地や金融資産を運用して莫大な利益を上げる企業も現れました。
 こうした傾向は企業や富裕層だけでなく一般大衆をも巻き込み、株への過剰な投機や、高級輸入車、美術品、骨董品などの買いあさり現象を引き起こしました。消費の過熱は盛り場にも波及し、全国に乱立したディスコが盛況を呈するなど、一大ディスコ・ブームが到来しました。人々は堅実に生きることを忘れ、まさに踊り浮かれていたのです。

 

アメリカに勝った

 日本人は、なぜこれほどまでに浮かれていたのでしょうか。それは経済の成功によって、長年の屈辱感から解放されたためでした。アメリカによって開国を強要され、復讐を誓った太平洋戦争で祖国を徹底的に焼き尽くされ、さらに占領支配を受けたことによる積年の屈辱感が、今ようやく晴らされようとしていました。
 軍事力で敗北を喫した日本は、経済力でアメリカを打ち負かそうとしました。戦争を放棄した日本人が、アメリカへの屈辱感を晴らすには、経済力で勝利するしか道はありませんでした。

 バブル絶頂期の1989年に、日本企業がニューヨークのロックフェラー・センターコロンビア映画を買収したのは、その象徴的な出来事でした。アメリカ側に日本脅威論が噴出し、「ジャパン・バッシング」が巻き起こった背景には、日本の経済的攻撃に対する警戒感が存在したからです。

 

躁状態だった日本

 アメリカを超えたという達成感は、日本社会全体に高揚感と誇大感をもたらしました。日本人はこの時、躁状態になっていました。

 躁状態において現実感覚が失われるように、日本社会にも現実感覚が失われていました。空前の好景気は、実体経済を伴ったものではありませんでした。もの作りに支えられて発展してきた日本経済は、いつの間にか資産の値上がりによって利益を得ようとする経済に変貌していました。「土地は必ず値上がりする」という土地神話は、やはり神話に過ぎませんでした。

 実体なく膨張した経済は、永遠に発展するはずもありませんでした。そして中身のないバブルは、ついに崩壊する時を迎えたのです。(了)