日本はなぜ奇蹟の復興を遂げられたのか(1)

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 戦後の日本は、GHQによって、それまでとはまったく異なった国家に改造されました。それはアメリカの望む方向への改造であり、軍事機構と国家警察を解体されたうえで、近代国家の基本的な骨格は踏襲されました。皇統神話が否定される一方で、日本は自由と民主主義を新たな神話とする、英米流の中央集権国家へと姿を変えたのです。

 こうして、アメリカに復讐ができないように改造された日本でしたが、やがて世界が目を見張るような復興を遂げていきます。それはなぜ可能だったのでしょうか。

 

日本国憲法という神話

 GHQの占領下において、自由と民主主義を謳った新憲法が発布されました。この憲法は、自由と民主主義を至上の価値とする、新たな神話の教義としての役割を果たすことになりました。新憲法が新たな神話の教義であるからこそ、現在まで70年もの間一度も改正されていないのであり、さらには憲法改正に触れることすらタブーとされてきたのです。
 特に、憲法第九条の「戦争の放棄」に触れることへのタブーは、まさに宗教の教義に対する態度を彷彿とさせます。なぜ戦争の放棄に触れることがこれほどのタブーになるかと言えば、日本人が戦いへの忌避感を共有して成立した民族だからです。

 それにも拘わらず日本人は、戦いを避けるという掟を破って世界を相手に戦争を行い、そしてかつてないほどの悲惨な敗戦を迎えました。この体験は、古の悲惨な記憶を想起されるために充分すぎるほどの役割を果たしました。日本人は、大きな代償を払って、今度こそ戦いを避けて生きなければならないと身にしみて感じ入ったのだと考えられます。

 

戦争の放棄は変えられない

 こうして戦争の放棄は、日本民族が自らを規定し、今後をどのように生きて行くかを示す神話の、中心的な教義として位置づけられることになりました。新憲法の草案を書いたアメリカ人は、日本が再軍備してアメリカに復讐できないように戦争放棄の条項を憲法に加えたのですが、まさかこの条項に触れることがタブー視され、日本人自身の手によって未だに保持され続けようとは夢にも思わなかったでしょう。

 今年に入って安倍首相が、憲法改正論議を巻き起こそうとしています。日本が独立国家として自立するためには、自衛隊の存在を認め、自衛のための戦争を行う権利を憲法で保障することは、現実的に考えれば至極当然のことです。

 しかし、日本国憲法が宗教の教義である限り、憲法を改正することは難しいでしょう。特に9条の戦争の放棄を変更することは、宗教の中心的教義を変更するほどの困難を伴うものと思われます。

 

絶対の支配者が存在しない日本

 ところで、戦後の日本が英米流の中央集権国家、言い換えれば自由と民主主義を教義とする一神教的国家に作り替えられたにも拘わらず、日本社会には神の代替者たる唯一、絶対の支配者が存在しなくなりました。

 太平洋戦争時の天皇、そして占領時代のマッカーサーという、近代の日本社会に誕生した唯一、絶対の支配者が相次いで失われました。加えて以後の日本の指導者は、独立を回復させた吉田首相を除けば、強力なリーダーシップを発揮して国を一つにまとめ上げるような役割を果たして来ませんでした。
 もちろん、これは悪いことではありません。独裁者の支配する社会が幸福だとは限らないし、独裁者でなくても余りに強力なリーダーシップは、政策を誤った際にはその被害が甚大になる可能性があるからです。

 

誰が日本を動かしているのか

 戦後の日本のように、首相でさえ所属政党の総意を得られなければ政策を決められず、立法や行政の実務のほとんどは官僚が行うような方法では、社会の方向性は一個人でなく集団によって決定されています。この方法では大きな飛躍は望めませんが、社会を着実な発展へと導くことはできるでしょう。

 問題はその方法自体にあるのではなく、日本が英米流の一神教的中央集権国家という体制を採りながら、実際には日本的な権力分散型の集団政治体制になっているという形式と実態の乖離にあります。この点に加えて、日本は独立回復後も、常にアメリカの強い影響下に置かれ続けることになりました。これらの要因によって、日本という中央集権国家は、誰によって動かされているのか明確には分からない状態になったのです。

 

奇蹟の復興

 さて、独立を回復した後の日本は、経済的な復興へと舵をきりました。官民一体となった日本国民の努力は凄まじく、敗戦から10年後の1955(昭和30)年には、経済の主要指標で戦前の最高水準を突破し、「もはや戦後ではない」というフレーズが巷を駆けめぐります。

 さらに、1960年に池田内閣が提唱した「所得倍増計画」から経済成長が加速し、この後10年間の年平均実質経済成長率は11%にも及びました。それは、この時期に同様に経済成長が続いていた欧米諸国に比べても驚異的な数字であり、日本のGNP(国民総生産)は、1968(昭和43)年には西ドイツを抜いて自由主義世界で第二位になりました。このような戦後の経済的発展は、世界から奇跡の復興と呼ばれました。

 

日本文化の復活

  復興の過程で、日本文化もまた徐々に復活を遂げました。日本経済は自由主義陣営の中にあって資本主義体制を採っていますが、その内実はきわめて日本的な要素の濃いものでした。
 たとえば、日本の会社のかつての特徴として、終身雇用制と年功序列制があります。これらの制度は、日本の会社が利益を追求する目的だけでなく、生活共同体としての役割を担う存在になっていることを示しています。日本の会社は、労働者が労働力を提供し、その対価として給与を得るためだけの場所ではなくなり、社員の人生そのものをまるごと支える共同体になりました。
 戦後の日本で重工業が発展し、会社への就業人口が増加するにつれ、この傾向は強くなって行きます。戦前の村落共同体に見られた日本社会の特徴、すなわち何よりも和を重視しながら、支え合い協力し合って農業などの就労に従事する生活態度が、そのままの形で会社に持ち込まれました。農村で農民が協力して一所を懸命に耕したように、会社では全社員が協力して一生を懸命に会社のために尽くしました。

 そこに敗戦と占領への屈辱感を晴らし、自尊心を取り戻したいという欲求が加わって、戦後の日本人は脇目もふらずに働きました。こうした労働に対する態度が、日本の資本主義を発展させるエートスになったのだと考えられます。

 

日本式の近代社会

 このようなエートスが発揮されたのは、なにも企業に限ったことではありません。農村や地域共同体のみならず、公務員の働く官庁や医療・教育現場、そして政治の世界に至るまで、様々な領域において村落共同体に擬した共同体が形成されました。

 新たな共同体の内部では伝統的な共同体に擬したルール(掟)が形成され、人々はそのルール(掟)に従って生活を送るようになりました。日本に「護送船団方式」や「談合」といったおよそ自由主義的ではないルールが現れ、多くの「天下り団体」が出現したのはそのためです。

 また、日本の政治が民主主義の原理によらずに「永田町の論理」で動いたのも、永田町が一つの共同体になったからだと考えられます。こうして戦後の日本には、伝統的な地域共同体のルールを踏襲した、いくつもの新しい共同体が生まれました。そのため英米式の国家形態を採りながらも、日本の伝統に基づいた、日本式の自由主義や民主主義、そして日本式の資本主義が形成されていったのです。(続く)