マッカーサーは日本社会にどのような足跡を残したのか(2)

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 太平洋戦争において、緒戦における日本軍の快進撃は、日本人に言いようのない達成感をもたらしました。ペリーに無理やり開港させられた屈辱感、さらに遡れば、日本民族の無意識に伝承され続けてきた敗戦に対する屈辱感が、まさに晴らされんとしていたからです。

 しかし、その後の戦局は悪化し、やがて日本全土で米軍の空襲が繰り返されるようになりました。そして、住宅地を狙った焼夷弾による無差別絨毯爆撃や原爆の投下を受け、日本社会は壊滅的な被害を被って終戦を迎えました。
 こうした状況の中で、日本人はどのように振舞うことになったのでしょうか。

 

屈辱感から目をそらす

 日本人は、アメリカに対して復讐を遂げることに失敗したばかりか、さらなる屈辱的な敗戦と占領を強いられることになりました。この屈辱的な現実をそのまま受け入れることは、到底できることではありませんでした。

 そこで日本人は、戦争の責任を一部の軍人や政治家に負わせる戦勝国の政策を受け入れたうえで、自らを子どもの立場に置き換え、征服者であるマッカーサーとの間に親愛感情を沸き立たせました。そして、この親愛感情を拠りどころとし、占領政策を自ら進んで誠実に受け入れる態度を示すことによって、現実の屈辱感から目をそらしていたのです。

 

12歳の少年

 しかし、この欺瞞は、もろくも崩れ去ることになります。それは、アメリカに帰国した後に行われた上院合同委員会で、マッカーサーが発言した内容を伝え聞いたことによってもたらされました。
 日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護して行くのか、日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーは次のように答えました。

 

 「もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導をうけるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです」(『敗北を抱きしめて[下]』1)406頁)

 

 マッカーサーの発言の主旨は、日本が近代文明の尺度で言えばまだ未成熟な段階にあり、「柔軟で新しい考えを受け入れることができる状態」だったからこそ占領政策は非常に上手くいったのであり、その結果として占領後の日本人はドイツ人よりも信用できるようになったと主張することにありました。

 ところが、この発言においてはからずも彼が、日本人の成熟度は「12歳の少年といったところ」であり、「指導を受けるべき状態」であったと考えていたことが露呈してしまったのです。

 

屈辱的な占領政策

 これに最も反応を示したのは、日本人でした。日本人はそれまで、日本の復興に尽力したマッカーサーに対して多大の尊敬と信頼を寄せていました。彼が解任されて帰国の途につく際には、多くの日本人が感謝の念を抱き、英雄として彼を見送りました。しかし、「like a boy of twelve」という言葉を伝え聞いた日本人は、マッカーサーが自分たちをこのように捉えていたことに愕然とし、自尊心を打ち砕かれ、彼に対して甘い幻想を抱いていたことに恥じ入りました。
 日本人が考えていたように、マッカーサーは、日本人の誠実な態度に応えてくれていたのではありませんでした。彼は最初から日本人を、自分たちよりも低く見ていました。つまり、日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っているため、アメリカに黙従するしかない立場にあるとマッカーサーは考えていたのであり、占領政策における彼の態度は、この考えを忠実に実行に移したに過ぎなかったのです。
 日本人は、マッカーサーから屈辱的な占領政策を受けていたという現実に、初めて直面せざるを得なくなりました。この時から英雄マッカーサーの記憶は日本人の意識から急速に失われ、無意識の中に抑圧されて行きました。

 

残されたマッカーサーの記憶

 マッカーサーの記憶が抑圧された結果、彼が日本社会に与えた影響の多くが、無意識の記憶痕跡となって日本人の心の底で生き続けることになりました。

 抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されるというフロイトの定式に従えば、マッカーサーが与えた影響は、戦後の日本と日本人の特質を形成する重要な要素になりました。日本人はマッカーサーを意識しないがゆえに、彼から受けた無意識の記憶痕跡から影響を受け続けることになりました。
 マッカーサーが残した記憶痕跡のうち、最も重要なものは、日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にあると考えられたことです。

 マッカーサーの「日本人は12歳」発言は、精神面での優越性を心の支えとしてきた日本人の自尊心を決定的に崩壊させました。この状態から立ち直るためには、「日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にある」という考えを無意識の中に抑圧しなければなりません。

 そのうえで、自らの力で復興の途を切り開き、日本文化の優越性を世界に対して実証しなければならなりませんでした。「奇跡の復興」と言われた戦後日本の経済的発展は、敗戦と占領による屈辱感を解消し、日本人の自尊心を取り戻すための涙ぐましい努力の賜物でした。

 

アメリカへの劣等感

 その結果、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に成長しました。しかし、この成功の陰で、無意識の記憶痕跡は日本人の行動に影響を与え続けました。

 アメリカに強圧的な態度を示されるとき、日本社会の無意識の記憶痕跡は頭をもたげます。また、アメリカ文化と関わることそれだけでも、無意識の記憶痕跡は日本人の劣等感を刺激します。こうして敗戦と占領によって作られた無意識の記憶痕跡は、日本人の精神を蝕み続けているのです。(了)

 

 

文献

1)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.