これまでのブログで、場の空気は、非言語的なコミュニケーションに導かれて形成されること、そして形成された場の空気の実体とは、人々に共通する無意識の記憶によって惹起された、共同化された欲望や感情であることを検討してきました。
今回のブログでは、こうして形成される空気が、わたしたちの身の回りだけではなく、なぜ社会全体の空気となっていくのかを検討したいと思います。
集団の無意識に伝承されるもの
空気が形成される際に、人々の無意識に共通する記憶が存在しているのはなぜでしょう。
ここで再び、フロイトの精神分析を紐解いてみましょう。フロイトは、『モーセと一神教』1)の中で次のような指摘を行っています。
「伝承に関する心理学的事態にあっては、個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧であって、集団のなかにおいても過ぎ去った出来事の印象は無意識的な記憶痕跡のなかに保存され続けているのだ、と私は考えている」(『モーセと一神教』142頁)
ここでいう「無意識的な記憶痕跡」とは、抑圧されることによっていったん忘却された記憶です。つまり、集団においても無意識へと抑圧されたものは消滅するのではなく、個人の場合と同様に集団の無意識の中に残存し続けるとフロイトは言います。さらにフロイトは、「先祖によって体験された事柄に関する記憶痕跡の遺伝という事態は、直接的な伝達や実例による教育の影響がなくても、疑問の余地なく起こっている」(同上150頁)とも述べて、直接的な情報伝達や教育の影響によらない無意識的な記憶痕跡が、集団の中で遺伝すると指摘しています。
いずれにしても、無意識の記憶痕跡は、「個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧」と指摘されているように、個人の記憶痕跡と同様に、集団のなかにも伝承されているのです。
記憶痕跡はなぜ伝承されるのか
では、「無意識的な記憶痕跡」は、なぜ人々の無意識の中に存在し続けるのでしょうか。その理由をフロイトは次のように述べています。
「直接的伝達は外部からやってくるすべての他の情報と同じように傾聴されたり判断されたり、場合によっては拒絶されたりするだろうが、論理的思考という拘束からの解放という特権的な力を獲得したためしは一度としてなかった。伝承とは、回帰してくるにあたって集団を呪縛してしまうほど強力な現実的影響力を発揮する前に、必ず一度はまず抑圧される運命に服さなければならず、無意識のなかに滞留している状態を耐え抜いてこなければならないものなのである」(『モーセと一神教』153頁)
言葉や理論による直接的な伝達は、論理的、意識的であるがゆえに、傾聴され、理解される反面、場合によっては変更されたり拒絶されたりする運命をたどります。しかし、抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに、論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されます。こうした伝承こそ、集団や民族、そこに属する個人の特質を形成する重要な要素になるのだと考えられます。
空気が言葉で説明できないのは
さて、ここで空気の性質について振り返ってみましょう。
空気は、言葉で説明できないもの、論理の積み重ねで説明できないものでした。これまでの検討によれば、それは空気が非言語的コミュニケーションのやり取りによって形成されるため、その過程を言葉で説明できないからでした。空気は説明ができなまま、いつの間にか出来上がっているのでした。
ここでもう一つの理由が考えられます。空気が形成されるための核が、無意識の記憶にあるからです。
わたしたちは、無意識の中にあるものに対しては、言葉による説明や論理の積み重ねによる説明ができません。それは、その記憶が他者からの禁止によって無意識へと抑圧させられているからです。個人の場合は、この禁止を受け入れることによって社会の掟に参画し、その結果として社会的存在としての自我が成立します。つまり、この禁止を解くことは自我の根底を揺るがすことに繋がりかねません。そのため、無意識の記憶はこの禁止から逃れることができず、意識化することができない構造になっています。
集団の場合では、この禁止は文化のタブーに相当します。禁止を解くことは、その文化が成立するための前提になったタブーを手放すことであり、それは文化を根底から崩壊させる事態に繋がりかねません。そのため個人の場合と同様に、集団の無意識へと抑圧されたものは禁止から逃れることができず、したがってそれらを意識化して、言葉や論理によって説明することができないのです。
空気に逆らえないのは
山本が『「空気」の研究』2)指摘するように、空気は「非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力」でした。そして、空気は「空気的判断の基準」となって、わたしたちの決断の基準になるものでした。空気のこれらの性質についても、精神分析による説明が可能です。
フロイトは、「(幼児期の)体験され理解されなかった事柄は、後年になって何らかのときに強迫的衝動性を伴って彼らの人生に侵入し、彼らの行動を支配し、彼らに否も応もなく共感と反感を惹き起こし、しばしば、理性的には根拠づけられないかたちで彼らの愛情選択まで決定してしまう」(『モーセと一神教』189頁)と述べています。
つまり無意識の中に追いやられた記憶は、その成り立ちからの性質上、意識できないものであるからこそコントロールすることができず、個人の精神を揺り動かし、行動までも支配してしまいます。
集団の心理についても、同じことが成立するとフロイトは指摘します。ならば個人の無意識の場合と同じように、空気が集団の無意識へと追いやられた記憶から生じていると考えれば、空気が絶対的な支配力を持っているのは当然のことになるでしょう。無意識の記憶は、意識できないからこそコントロールすることができず、個人の精神を揺り動かし、行動までも支配してしまうのです。
論理的、理性的に行動できない
また、山本が「われわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断の基準である」と述ているのも、無意識の性質をよく現しています。
わたしたちは論理的、理性的に行動しようとしますが、結局は無意識の記憶やそれに刺激された欲動や欲望によって行動を支配されています。それどころか、論理的、理性的に行動しようとすればするほど、欲動や欲望による支配がいっそう強固になることは、精神分析がつとに指摘するところです。無意識の存在を無視すれば、無意識をコントロールすることが一層困難になるからです。
集団の意思決定も同様であり、論理的判断の基準を重視すればするほど、無意識の記憶に刺激される欲望や感情によって醸し出される空気が、集団の意思をより強固に決定してしまうのです。(続く)
文献
1)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセと一神教.日本エディタースクール出版部,東京,1998.