日本はなぜ超大国アメリカと戦ったのか(2)

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 日本は中国と戦争を続けながら、超大国アメリカとも戦争を遂行しました。その無謀さを、時のリーダーたちも軍部もしっかり認識していました。それなのに、誰もこの暴挙を止めることができませんでした。

 なぜ当時の日本人は、破滅への途を突き進んでしまったのでしょうか。

 

開戦を後押しした社会の空気
 日米開戦へと突き進んでしまった重要な要因こそ、当時の日本社会を覆い尽くしていた空気です。

 「日米開戦前の政治家や軍人の手記や日記を読むと、〝戦争をできないなんて世論が許さない〟とか、〝戦争ができないなんていえる空気じゃない〟といったことが書かれている」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』1)52頁)

 当時の政治家や軍人が「戦争をできない」と言えなかったのは、世論やそれを形作る空気が許さないという側面がありました。

首相官邸に届いた国民からの投書は三千通を数えたという。そのほとんどが、日米開戦を強く求める内容だった。戦争へと向かう熱狂は、おそらく多数存在していたと思われる『戦争を望まない人々』の声を、見事にかき消していった。
『もう、ドイツと組んで戦をやれという空気が覆い尽くしていましたね。陸軍などは、もうドイツの勝利は間違いないと。一般の空気は戦争論で日本は沸いていましたよ』(福留繁・海軍少将証言)」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』36頁)

 日米開戦を求める空気は日本中を覆い尽くし、日本社会には戦争へと向かう熱狂が渦巻いていました。この空気に、リーダーたちはもはや抗うことができなくなっていたのです。

 

開国時の屈辱感

 では、戦争へと向かう空気はなぜ生まれたのでしょうか。それは、相手の国がアメリカだったことにその原因があります。
 時は、江戸時代末期まで遡ります。鎖国政策のもと専ら国内に目を向け、平和で和やかな社会を維持することに専心していた日本は、浦和に来航したペリーによって開国を迫られました。黒船によって示された技術力と軍事力に、江戸幕府は圧倒されました。ペリーの恫喝外交に屈した幕府は、200年以上に渡って続けてきた鎖国を解き、アメリカとの間に屈辱的な不平等条約を結ぶことを余儀なくされました。

 この事件の衝撃は計り知れず、265年間続いた江戸幕府は倒れ、新たに明治政府が樹立されました。

 

屈辱感が頭をもたげる

 この事件は、日本人の心に大きな傷跡を残しました。日本人は、ペリーに恫喝されて無理矢理開国させられた屈辱感を無意識の中に抑圧して、富国強兵に邁進しました。

 日露戦争当時のアメリカは、和平の仲介をしてくれる友好的な国でしたが、日中戦争以降は、それまでの態度を翻して日本に敵対的な態度を示すようになっていました。度重なる経済制裁や、中国から撤兵させようとする強圧的なアメリカの態度は、開国当時の屈辱感を刺激しました。無意識の中に抑圧されていたアメリカに対する屈辱感が頭をもたげ始めると、この屈辱感は、古来から日本民族に伝承されてきた屈辱感をも呼び覚ますことになりました。そして、屈辱感を刺激された日本人からは、この屈辱感を晴らすべく、対米戦争を望む空気が形成されていったのです。

 

屈辱感を晴らすための戦争

 日本人は、この屈辱感を晴らすために、アメリカに対して戦争を仕掛けたと言っても過言ではありませんでした。

 もちろん、開戦の原因は一つではないでしょう。アメリカは、対日経済封鎖や日本の対外政策を全面的に否定したハル=ノートの提示などによって、日本を徹底して追いつめました。そこには、根強く続いていた米国民の参戦反対論を、日本の攻撃によって一掃したいというローズヴェルト大統領のしたたかな計算があったとも言われています。

 しかし、その思惑に乗って戦争を仕掛ければ、短期間で戦争が終結しない限り、経済力で圧倒的に劣っていた日本が敗北を喫することは明らかでした。開戦の決断には、理性的には説明できない無意識の衝動、つまり、アメリカに対する屈辱感が大きく作用したのだと考えられます。

 

緒戦の勝利による解放感

 緒戦における日本軍の快進撃は、日本人に言いようのない達成感をもたらしました。90年間の屈辱感、さらに遡れば、日本民族の無意識に伝承され続けてきた敗戦に対する屈辱感が、まさに晴らされんとしていました。

 それは、当時の言論人たちの言葉に明確に表現されています。

 フランス文学者の辰野隆(たつのゆたか)は、パール・ハーバー攻撃成功の報に接し、次のように述べています。

 

 「あの十二月八日の朝、感じたことを一言で言いますと、ざまぁー見ろです」(『日本の歴史25 太平洋戦争』2)352頁)

 

 また、志賀直哉は、シンガポール陥落直後のラジオ放送で次のように述べています。

 

 「天に見はなされた不遜なる英米がよき見せしめである。若い人々に希望の生まれた事も実に喜ばしい。吾々の気持ちは明るく、非常に落ち着いて来た」(『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』3)63-64頁)

 

 文芸評論家の青野季吉(あおのすえきち)の次の言葉は、緒戦の勝利が日本人の自尊心を回復させたことをよく示しています。

 

 「戦勝のニュースに胸轟(とどろ)くを覚える。何という巨(おお)きな構想・構図であろう。アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た。われわれのように絶対信頼できる皇軍を持った国民は幸せだ」(『日本の歴史25 太平洋戦争』352頁)

 

 さらに、文芸評論家の亀井勝一郎は、太平洋戦争を自主独立のための戦争として捉えていました。

 

 「戦争より恐ろしいのは平和である。・・・奴隷の平和より戦争を!」(『日本の歴史25 太平洋戦争』352頁)

 

 しかし、その後の戦局は悪化し、やがて日本全土で米軍の空襲が繰り返されるようになりました。そして、住宅地を狙った焼夷弾による無差別絨毯爆撃や原爆の投下を受け、日本社会は壊滅的な被害を被って終戦を迎えたのです。

 

抗うことのできない空気

 以上のように、アメリカに対する無意識の屈辱感、そしてそれに連なる古来からの屈辱感が、対米戦争を望む空気を作り上げました。この後のブログでも検討するつもりですが、空気は集団に伝承されてきた無意識の記憶痕跡に由来しているために、意識的な判断や理性の影響を受けることなく集団の行動を決定づけてしまいます。そのため、いったん対米戦争を望む空気が出来上がってしまうと、誰もこの空気に抗うことができなくなるのでした。
 こうして日本は、リーダーたちが無謀であると考え、軍人でさえも躊躇していたアメリカとの戦争に、国民一体となってなだれ込むことになったのです。(続く)

 

 

文献

1)NHK取材班編著:NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下.NHK出版,東京,2011.
2)林 茂:日本の歴史25 太平洋戦争.中央公論新社,東京,1974(2006改版発行).
3)油井大三郎,吉田元夫:世界の歴史28  第二次世界大戦から米ソ対立へ.中央公論社,東京,1998.