日本はなぜ超大国アメリカと戦ったのか(1)

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 満州国を建国し、中国と戦争を行った日本は、ついに世界の超大国アメリカとも戦火を交えることになります。

 中国と戦争を続けることだけでも大変な状況であるのに、さらにアメリカやイギリスとも同時に戦争を行うなど、とても正気の沙汰であるとは思えません。現在のわたしたちの視点で冷静に考えれば、日本は破滅への途を突き進んでいるようにしかみえないでしょう。

 なぜこのような愚挙が、当時の日本において行われてしまったのでしょうか。

 

対立する日本とアメリカ

 日本の中国への進出は、アメリカを刺激することになります。アメリカは日本の南下政策に警戒感を強め、次第に中国寄りの立場を採るようになって行きました。

 日本が「東亜新秩序」を提唱すると、アメリカは中国への援助を強化するとともに、日本に対する経済制裁として、1939年に日米通商航海条約の破棄を通告しました。当時の日本は資源の供給をアメリカからの輸入に頼っていたため、日本は経済的にも軍事的にも追いつめられました。

 さらに、1941年に日本軍が南部仏印に進駐すると、アメリカは対日石油輸出の全面禁止に踏み切ります。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、この措置は大きな打撃となりました。日本国内では、この頃から対米開戦論が主張されるようになったのです。

 

ついに激突が始まる

 日中戦争を主導した近衛首相でしたが、アメリカとの戦争には否定的でした。近衛内閣はアメリカとの戦争を回避しようと、日米交渉を重ねます。しかし、アメリカの主張が日本軍の中国からの撤退だったため、陸軍の強い抵抗にあって交渉は進展しませんでした。その責任を取って近衛内閣は総辞職し、陸軍大臣だった東条英機が首相となりました。

 東条内閣では、開戦準備と並行して対米交渉も模索されました。ところが、アメリカからハル=ノート、すなわち日本軍の中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の空文化、重慶政府以外の不承認などを要求した覚書が提示されるに至って、東条内閣はこれを最後通牒として受けとりました。そして、1941年12月8日、日本陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、海軍はハワイの真珠湾を攻撃します。こうして、ついに太平洋戦争の火蓋が切って落とされたのです。

 

戦争を回避したかった軍部

 日本は中国と戦争をしながら、なぜ米英との戦争にも踏み切ったのでしょうか。日本の国力から考えれば、誰の目から見ても無謀な戦いとしか映らないでしょう。

 戦後の教育では、軍国主義をかかげた一部の軍首脳によって、日本人は間違った戦争に引き込まれたことになっています。国民は、彼らによって洗脳された被害者だったという構図です。果たして、本当にそうなのでしょうか。
 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』1)によれば、当時のリーダーたちは、アメリカの総合的な国力が日本の80倍(!)だという事実を認識し、アメリカと戦争をしても歯が立たないと考えていました(同100頁)。リーダーたちは、しっかりと現実を理解していたのです。
 では、軍人たちが戦争をしたがったのでしょうか。

 

 「本当にアメリカと戦うのか。まず深刻な動揺が広がったのは、海軍だった。
『海軍の最高首脳部は、もう絶対やっちゃいかん、やっちゃいかん。そういう考えで。そういう力はありませんよ。そんなことを目標にして日本の陸海軍の戦備というのはできているわけじゃない』(保科善四郎証言)
『幾度(対アメリカ戦の)演習をやってみても、あるいは図上で演習をやってみても、勝ち目がないんですね。実際のところ審判(判定)でごまかしているんですけれども、本当に率直にいえば勝ち目がない』(高木惣吉海軍省調査課長証言)」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』112頁)

 

 海軍がこのようにアメリカとの戦争を無謀だと捉えていたのなら、陸軍が対米戦を主導したのでしょうか。

 

 「間もなく陸軍でも、アメリカとの戦争に慎重を望む声が上がり始める。日中戦争もいまだ終わっていない状況のなか、疲弊した戦力でアメリカに挑むことの無謀さを、現場の指揮官たちは訴えた。
『日米交渉は、何としても成功させてほしい』(畑俊六・支那派遣軍総司令官)
『この際、撤兵の条件を呑むことも、大した問題ではないと考える』(後宮淳・支那派遣軍総参謀長)」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』112頁)

 

 実際に中国で戦闘に携わっていた陸軍の指揮官たちは、アメリカとの戦争を何としても回避したいと考えていました。

 このように当時の政治家も、そして軍人も、アメリカとの戦争を決して望んではいませんでした。

 

戦争回避を決断できないリーダー

 それではなぜ、アメリカとの開戦を止められなかったのでしょうか。

 

 「いざ戦争回避を決断するとなると、リーダーたちの覚悟は揺れた。アメリカと戦う力がないことを認め、中国から撤兵するなら、これまで失われた二十万あまりの兵たちの命、毎年の国家予算の七割にも達した陸海軍費はいったい何のためだったのか。国民が失望し、国家も軍も面子を失うことを恐れた」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』112頁)

 

 アメリカとの戦争を避けるために中国から撤兵すれば、これまでの人命も戦費もすべて無駄になってしまいます。その決断を下すことが、リーダーたちにはできなかったというのです。

 この状況を、歴史学者のジョン・ダワーは次のように指摘しています。

 

 「人が死ねば死ぬほど、兵は退けなくなります。リーダーは、決して死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への負債』は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向けて『我々は間違えた』とはいえないのです」(『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』114頁)

 

 軍人を含むリーダーたちの本音は、戦争を避けたいという点で一致していました。しかし、多くの恨みを買うであろうこの決断を、誰も口にすることはできませんでした。これが、アメリカとの戦争を回避できなかった大きな要因になったと同書は指摘しています。

 

リーダーたちだけの問題だったのか

 ところで、戦争回避の決断が下せなかったのは、リーダーたちが「面子を失うことを恐れ」、「死者を見捨てることが許されない」と考えたからだけなのでしょうか。

 面子を失うことやそれまでの間違いを認めることなら、誰かがそれらを乗り越え、戦争回避の決断を下せたのではないでしょうか。その決断が正しければ、たとえその時代で非難され恨みを買ったとしても、後代において正しい決断をしたと再評価され、名誉が回復されるからです。ポーツマス条約における、小村寿太郎がそうだったように。
 したがって、当時のリーダーたちが戦争回避の決断を下せなかったのには、彼らの決断を強力に阻止した別の要因が存在したのではないかと考えられます。

 次回のブログでは、その要因について検討したいと思います。(続く)

 

  

文献

1)NHK取材班編著:NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下.NHK出版,東京,2011.