日本はなぜアジアに侵攻したのか(2)

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 前回のブログで、日本人が朝鮮半島や大陸への侵攻を繰り返した背景には、日本文化に受けつかれてきた無意識の記憶痕跡が影響を与えていることを検討しました。

 日本民族は、戦いに敗れ続けて日本列島にたどり着いた人々の末裔であり、度重なる敗戦に対する屈辱感は、民族の無意識の深層に受け継がれてきました。そのため日本人は、自らの戦闘力に自信を深めるようになると、この屈辱感を晴らすために朝鮮半島や大陸への侵攻を試みるのです。

 明治維新後に政府がとった植民地政策にも、民族の屈辱感が影響を与えている可能性が考えられます。

 

遠い過去に追われた故郷

 明治維新後に、日本が朝鮮と満州支配下に置こうとしたことには、民族の無意識が影響を与えていた可能性があります。かつて東北アジアに住んでいた人々が、戦いに敗れてたどり着いた先が日本列島だったとすれば、植民地にしようとした地域とは、遠い過去に追われた「故郷」としての意味があったのではないでしょうか。

 特に、まだ未開拓な寒冷地であった満州の獲得に対して、「満蒙は帝国の生命線」、「満蒙はわが民族の血と汗の結晶」などという新聞の見出しが躍ったのは、日本民族の無意識の中に、遠い昔に追われた地を何としても奪い返したいという切実な願望が存在したからではないでしょうか。

 

追われた地を奪い返したい願望

 日本人はこの願望を叶えるために、日清、日露の戦争を起こしたという側面があったと考えられます。
 日清戦争(1894~95年)は、朝鮮の支配権をめぐる日清両国の衝突でした。近代的に組織化された軍隊を持った日本は、清国の軍隊を圧倒して勝利を収めました。下関条約では、朝鮮の独立の承認、台湾・澎湖(ほうこ)諸島・遼東半島の割譲、賠償金の支払いなどが決められました。近代化後の日本は、こうして大陸進出への第一歩を踏み出したのでした。
 ところが、満州への進出を目論んでいたロシアが、ドイツ、フランスと共に遼東半島を清国に返還するように日本に迫りました。いわゆる三国干渉です。日本はまだこれらの大国に対抗できるだけの国力がなかったので、泣く泣く遼東半島の返還に応じました。

 しかし、国民の間には三国干渉に対する激憤の声が高まり、「臥薪嘗胆」の合い言葉が叫ばれるようになりました。この激憤が、やがて日露戦争へと繋がって行くのです。

 

ぎりぎりの勝利だった日露戦争

 日露戦争(1904~05年)は、満州の支配権を巡る戦いでした。捲土重来の時がようやく訪れました。日露戦争における勝利は、日本人を熱狂させました。ロシアという西洋の大国に勝利したことは、近隣諸国のみならず世界中を驚かせました。この勝利に日本人は舞い上がり、完全に我を見失っていたと言えるでしょう。
 実際に日本が、10倍の国力を持つと言われたロシアに戦争で勝利するのは、並大抵のことではありませんでした。日本は巨額の戦費を準備するために、アメリカやイギリスで外国債を募集し、それでも足りない費用は国内の国債増税で捻出しました。

 戦闘においては、日本軍は旅順や奉天の会戦で勝利を収め、また日本海海戦バルチック艦隊を壊滅させるなど予想外の健闘を示しました。それでも次第に戦費の調達が覚束なくなり、現実的にはそれ以上戦争を継続することが困難になっていました。

 一方、ロシアも革命の前夜で国内が安定せず、戦争を続けられない情勢にありました。そこで日本は、アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトに和平の仲介を打診し、1905年にポーツマスで開かれた日露講和会議でようやく戦争に終止符を打ちました。

 

屈辱感を解消できない不満

 日露講和条約ポーツマス条約)では、韓国に対する保護・監督権や長春・旅順間の鉄道の権利、北緯50度以南の樺太の割譲などをロシアに認めさせました。その一方で、日本側は賠償金の要求を取り下げるなどの譲歩を示し、満州からは日露両軍が撤兵することが取り決められました。これらは、当時の日本ができる限りにおいて、最高の結果を得ることに成功した決着だったと言えるでしょう。

 ところが、勝利で舞い上がり、我を見失っていた日本人は、この決着に激しい不満を抱きました。特に満州からの撤退は、「故郷」を奪還することができると期待していた人々に、大きな失望を与えました。ポーツマス条約を「屈辱的講和」と呼び、戦争継続を叫ぶ群衆が日比谷焼き討ち事件を起こしました。ポーツマス条約の全権である小村寿太郎は「国賊」と非難され、暴漢に襲われたり、「切腹しろ」と脅しを受ける始末でした。

 なぜポーツマス条約が「屈辱的講和」であり、戦争を決着させた小村寿太郎が「国賊」と非難されたのでしょうか。それは日露戦争が日本の国益を守るための戦争ではなく、日本人の屈辱感を解消させるための戦争だったからです。小村寿太郎は日本の国益を守るためには最大限の成果をあげましたが、交渉で譲歩した姿勢がかつての敗者の姿を連想させ、再び人々の屈辱感を刺激したのだと考えられます。

 こうした騒ぎに政府は戒厳令を敷き、事態の沈静化をはかりました。しかし、その後も民衆の暴動がしばしば起こり、日露戦争の決着に対する不満は人々の中で燻り続けたのです。

 

何としても満州を占領したい

 時を経て1931年に、関東軍が自ら満鉄線路爆破事件を起こし、これを中国の仕業と発表しました。これは柳条湖(りゅうじょうこ)事件と呼ばれています。この事件を口実に関東軍は独断で軍事行動を起こし、奉天長春などの南満州の都市を次々と占領しました。当時の政府は不拡大方針を表明したものの、関東軍はこれに従わずに軍事行動を拡大し、満州各地を占領して行きました。これが満州事変です。

 この後も関東軍の暴走は止まらず、反対する政府を無視して満州の主要都市を次々と占領しました。そして、1932年には清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、「満州国」の建国を宣言させたのです。
 軍隊の一組織が、政府の方針を無視して勝手に行動を起こすことなど、近代の国家としては決してあってはならないはずです。柳条湖事件から満州事変を起こし、ついには満州国を建国するという一連の行動が止められなかったことは、日本政治史における前代未聞の不祥事だったと言えるでしょう。しかも一連の不祥事を起こした軍人たちは、厳しく処罰されるどころか、後にみな昇進を遂げています。なぜこのような不可解な“暴挙”が、大手を振ってまかり通ったのでしょうか。

 

国民の熱狂

 それは関東軍の行動を、国民の熱狂が後押ししたからです。

 日本軍の満州における占領地の拡大は、世界恐慌に苦しんでいた国民を熱狂させました。この熱狂を煽ったのが大手の新聞社でした。ほとんどの新聞が関東軍を支持する論調を展開し、それに伴って新聞各社は発行部数を大幅に伸ばしました。新聞が発行部数を伸ばしたのは、もちろん国民が関東軍を圧倒的に支持したからです。

 さらに満州国が建国されると新聞各社はこれをも支持し、それを読んだ国民は関東軍の行動に拍手喝采を送りました。満州事変を起こした関東軍の責任者たちが帰国した際には、神戸港に群衆が殺到し、彼らの凱旋を大歓声で迎えました。こうした国民の熱狂によって、満州国の独立を認めない立場を採っていた政府も、最終的には満州国を承認せざるを得なくなったのです。

 

社会を覆う空気
 日本国民のこの熱狂は、社会を覆った空気によって広まって行きました。当時の日本社会には、「関東軍の行動は行き詰まった日本の現状を打破してくれる」、「一連の軍事行動は日本の国益にかなっている」、「満州国の存在は日本の生命線である」といった論調に基づいて、関東軍の軍事行動を支持する空気が充満していました。

 この空気は、確固たる根拠や将来の展望を見据えて形作られたものではありません。むしろ、少し冷静になって考えれば、日本の立場をより難しいものに追い込んでしまう危険性を充分に秘めるものでした。

 

空気が起こした五・一五事件

 満州国建国の途上で起こった五・一五事件も、この空気によって起こされたのだと考えられます。

 当時の犬養内閣は、満州国の承認を渋っていました。建国の経緯を考えれば、それは当然の判断だったでしょう。しかし、これを不服とする海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を射殺しました。
 事件に関与した軍人たちは、反乱罪の容疑で裁判にかけられました。現代であれば、テロにも等しいこの事件は、社会から激しいバッシングを浴びせかけられたでしょう。ところが、青年将校たちは非難されるどころか、彼らには35万通もの減刑嘆願書が裁判所に寄せられました。その影響もあってか、将校たちへの判決は、一国の総理大臣の計画的な殺害という重罪にも拘わらず極めて軽いものとなりました。最も重い者でも禁固15年であり、恩赦につぐ恩赦によって結局6年の間に全員が出所しました。
 この事件からは、当時の人々の間に、いかに満州国建国を切望する空気が蔓延していたかを窺い知ることができるでしょう。(続く)