日本はなぜアジアに侵攻したのか(1)

f:id:akihiko-shibata:20180428110328j:plain

 

 明治維新に邁進した日本は、西洋以外で初めて近代化を達成することに成功しました。日本は近代国家として、欧米諸国と肩を並べるようになりました。それは政治、経済の近代化だけでなく、軍事力の近代化にも及びます。むしろ日本においては、軍事的な側面の方が重要視されていたと言えるかもしれません。
 それに伴って日本は、実際の戦争にも目覚めることになります。江戸時代に250年以上も平和を維持してきた日本は、明治維新からわずか70年余りの間に、日清戦争日露戦争第一次世界大戦日中戦争、太平洋戦争と次々と戦争にのめり込みました。なぜ、日本民族は、このような急激な変節を遂げたのでしょうか。

 

屈辱感とアジア侵攻
 先に、日本が欧米諸国と同様の攻撃的な態度を採るようになった理由を、アンナ・フロイトの攻撃者との同一化という心理機制を使って説明しました。それに加え、日本が攻撃性を示すようになった背景には、日本文化の底流に存在する敗戦に対する屈辱感があったのではないかと考えられます。
 以前のブログで検討したように、日本民族は、戦いに敗れ続けて日本列島にたどり着いた人々の末裔だと推察されます。度重なる敗戦に対する屈辱感は、民族の無意識の深層に受け継がれてきました。この屈辱感の記憶は、意識されない限りそのままの形で無意識の中で伝承され続けました。

 そのため日本人は、自らの戦闘力に自信を深めるようになると、この屈辱感を晴らすために朝鮮半島や大陸への侵攻を試みるのでした。

 

朝鮮半島への出兵

 その試みは、古くは4世紀から始まっています。「前方後円墳体制」が確立され、日本列島に一応の政治的秩序が形成されると、倭国(ヤマト政権)は軍隊を組織して朝鮮半島に出兵する準備を始めました。

 4世紀の後半には、倭国百済と軍事同盟を結び、倭軍を朝鮮半島に送り込みました。高句麗が南下して百済との戦いが始まると、倭国もその戦いに参戦します。こうして5世紀の初頭に倭国高句麗と戦ったのですが、歩兵戦隊しか持たない倭軍は、騎馬戦隊を有し、しかも強力な武器を備えた高句麗軍に大敗を喫しました。
 次に朝鮮半島に出兵したのは、日本に中央集権化が進みつつあった7世紀です。朝鮮半島では唐が百済に出兵し、新羅と連合してその都を陥れたため660年に百済は滅亡しました。各地に残る重臣たちが百済の復興に立ち上がり、同盟関係を結んでいた倭国に援軍の派遣を要請しました。

 斉明天皇中大兄皇子は、朝鮮半島での倭国の外交拠点を復活させる目論見もあって、百済救援のために大軍を派遣しました。倭国は2万7000人もの兵を送り、663年3月に朝鮮半島西岸の白村江で唐・新羅の連合軍と相まみえることになりました。しかし、倭軍はこの白村江の戦いでも、戦力、戦術の両面において唐軍に圧倒され、わずか2日間で惨敗したのです。

 

秀吉の朝鮮侵攻

 その後の日本は、長い間自国内に留まっていました。時を経て戦国時代に豊臣秀吉が全国を統一すると、再びアジア侵攻への機運が高まりました。

 秀吉は明の征服を企て、1592年に15万人余りの大軍を朝鮮に派兵しました(文禄の役)。戦国時代に戦いに明け暮れていた当時の軍事力は強大で、上陸した日本軍は漢城(ソウル)を陥れ、一気に平壌までを占領しました。しかし、義民軍の抵抗や朝鮮水軍の活躍、さらには明の援軍などにより次第に戦況は悪化し、補給路を断たれた日本軍は休戦せざるを得なくなりました。秀吉は1597年にも朝鮮に14万人余りの兵を送りました(慶長の役)が、苦戦を強いられた日本軍は、翌年に秀吉が病死すると朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。
 明の征服を目論んだ朝鮮半島への出兵は、秀吉の誇大妄想によって引き起こされたとか、秀吉が晩年に認知症を患って正常な判断ができなくなっていたからだと捉える向きがあるようです。しかし、たとえ天下人の命令といえども、“ご乱心”による妄想や認知症老人の戯言に、すべての大名が従うなどということがあるでしょうか。朝鮮半島への出兵は秀吉の独断だけではなく、他の大名にも共通する何らかの思いが存在していたはずです。
 その共通する思いとは、表面的には、統一された日本の外に新たな領地を獲得しようとする実利的なものだったでしょう。しかし、その思いの深層には、戦いに敗れ続けた屈辱感を晴らそうとする、日本民族の無意識の願望が存在していたのではないでしょうか。人々の無意識の中に屈辱感を晴らそうという共通の願望があったからこそ、僅か数年の間に15万人と14万人という膨大な数の日本兵が、海を渡って半島で戦ったのです。

 

近代化以降の侵攻

 以上のような歴史は、明治維新後にも繰り返されました。明治維新によっていち早く富国強兵に成功した日本は、はからずも日清、日露の両戦争に勝利しました。両戦争の勝利は、外国との戦争における初めての勝利でした。

 この際に、日本人の無意識の中に伝承され続けた、敗戦に対する屈辱感が解消されました。そこには、戦いに敗れ続けた古の民族の姿はありませんでした。日本民族はかつての戦いに敗れ続けた民族ではなく、新たな民族として生まれ変わりました。この思いが、その後の日本の行動に決定的な影響を与えることになったのだと考えらます。
 明治時代に形成された行動様式は、大正、昭和へと引き継がれました。第一次世界大戦に参戦した日本は、対独戦において、東アジアにおけるドイツの重要な拠点を占領しました。さらに満州事変後に満州国を建国した日本は、ついに華北にも侵攻し、中国との全面戦争に突入しました。この戦いは、東南アジアから太平洋地域を戦場として、世界の最強国アメリカと死闘を繰り広げる太平洋戦争へと拡大しました。
 ちなみに、日本が攻撃の対象とした主要な国家が、中国とアメリカであったのは偶然ではありません。両国は日本の建国時と開国時に、日本の存続を脅かし、日本人に不安と恐怖を抱かせた攻撃者だったのであり、日中戦争と太平洋戦争は、かつての攻撃者に対する報復の意味を持っていたのです。(続く)