日本はなぜ近代化を達成できたのか(3)

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 これまでのブログで検討してきたように、日本は擬似古代国家として再出発したのですが、明治の日本には、ここでさらに新たな要因が加えられることになりました。その要因とは、欧米と同様の社会制度と行動様式でした。

 今回のブログでは、この要因が加えられながら、近代化が達成されていった過程を概観したいと思います。

 

近代的な立憲国家

 建国当時の日本は、唐の律令制度を模倣しながら、仏教を中心とした大陸文化を吸収しました。それと同様のことが、近代日本においても行われました。明治以降の日本は、欧米諸国の立憲政治を模倣しつつ、キリスト教を背景に持つ近代西洋文化を吸収したのです。
 近代国家の根幹をなすものは、憲法の制定です。日本は明治22(1889)年、大日本帝国憲法を発布しました。憲法の発布と翌年の帝国議会開設によって、日本は他のアジア諸国に先駆けて、近代的な立憲国家としての第一歩を踏み出しました。
 この憲法において、天皇は神聖不可侵とされ、国家の元首として統治権を総攬するものと定められました。天皇は、陸海軍の統帥、編制、常備兵額の決定、行政各部の官制の制定・官吏の任免、法律の裁可・公布・施行、帝国議会の召集・衆議院の解散、宣戦布告・講和・条約締結の権限を有するなど、広範な大権を保持することになりました。しかし、これらの統治権は無制限ではなく、憲法の条文に従って行使されなければならないことが明記されていた点には注意を要します。

 

教育勅語という聖典

 憲法発布の翌年に示された「教育に関する勅語」(教育勅語)は、学校教育を通じて、天皇中心の国体の教義を国民に徹底させる役割を果たしました。

 教育勅語では、日本の国家が神である皇祖皇宗によって始められ、道徳は皇祖皇宗に発しており、臣民(国民)の忠孝こそ国体の精華であるとされました。そして、この道徳を皇祖皇宗の遺訓として絶対化し、時代を超え、国家を超えた人類の普遍的な道徳であるとしました。臣民はこれを守り行うことを命じられ、戦争等の非常事態に際しては、天皇と国のためにすべてを捧げる行為が奨励されることになりました。

 このような内容を持つ教育勅語は、国家神道という新たな宗教の教義であり、「聖典」だと言えるでしょう。

 

脱亜論

 日本が近代化に邁進して行くに当たって、重要な役割を果たしたのが福沢諭吉の「脱亜論」です。彼は、西洋諸国の急速な東アジアへの勢力拡張の中で、西洋文明を取り入れて近代化しない限り国家の独立は維持できないと考えました。そして、もはや近隣諸国の近代化を待つ猶予はなく、日本は独自に近代化を推し進めて西洋諸国の仲間入りをするべきだと説きました。

 さらに朝鮮、清国といえども特別の配慮をする必要はなく、むしろ西洋流の仕方で接する他はないと主張しました。脱亜論は日本の近代化を加速させるとともに、清国との軍事的対決の気運を高めることに繋がったと捉えられています。

 

欧米と同様の行動

 こうして日本は、急速に近代化の歩みを進めたのですが、その際に日本が取り入れたのは西洋文明だけではありませんでした。文明にとどまらず、それは欧米諸国の行動様式にまで及びました。その行動様式とは、次のようなものです。
 近代化を達成した欧米諸国は「文明」対「野蛮」という対立構造を作り上げ、「文明が野蛮を支配するのは正当な行為である」という思想を発展させました。そして、文明化された欧米諸国が野蛮な世界を支配するのは不正ではないばかりか、野蛮な世界を文明化するのは、近代化を達成した国々の義務であるとすら考えるようになりました。この正当化に基づいて欧米諸国は、世界中を次々と分割・植民地化していったのです。
 近代化を推し進めた日本も、同様の行動様式を採るようになりました。日清、日露戦争は、日本が欧米諸国と同様に植民地を獲得して行くための最初の歩みでした。両戦争に勝利した日本は、韓国を併合し、満州へと進出しました。この過程で、日本は悲願の不平等条約改正に成功したばかりか、“光栄ある孤立”を保ってきたイギリスと日英同盟を締結することにも成功しました。
 こうして日本は、欧米諸国から近代国家として認められた一方で、非白人国で最初の帝国主義国家になりました。ペリー来航に触発され、尊皇攘夷から始まった日本の近代化は、いつの間にか日本を、敵対国と同様の文化と行動様式を有する国家へと変貌させてしまったのです。

 

攻撃者との同一化

 ところで、このような現象は、心理学的には攻撃者との同一化 identification wiht aggressor という防衛機制によって引き起こされます。

 フロイトの娘であり、児童分析の道を開拓したアンナ・フロイトは、お化けの恐怖から逃れるために自分がお化けの真似をする少女や、教師から叱られる不安に打ち勝つために、教師の表情を模倣して「しかめっ面」を繰り返す少年の例を挙げて、この心理機制を説明しています。
 さらに彼女は、次のように指摘しています。

 

 「子どもは不安を起こさせる対象のある特徴を取り入れることによって、彼の受けた不安経験を処理する。ここでは、取り入れまたは同一化の機制が、第2の重要な機制と組み合わされている。攻撃者をまねたり、属性を装ったり、攻撃性をまねたりすることにより、子どもは脅かされる側から、脅かす側へと自分を変える。(中略)この受容的役割から攻撃的な役割への変換が、幼児期における不快かつ外傷的な経験の処理に、重要な役割をなしている」(『アンナ・フロイト著作集2 自我と防衛機制1)90頁)

 

 アンナ・フロイトは、子どもの心理的防衛機制について述べているのですが、この指摘は、集団の心理にも応用することができます。明治維新後の日本は、「欧米諸国をまねたり、属性を装ったり、攻撃性をまねたりすることにより、脅かされる側から脅かす側へと自らを変えた」のであり、「この受容的役割から攻撃的な役割への変換が、近代日本の揺籃期における(米国から受けた)不快かつ外傷的な経験の処理に、重要な役割を果たし」ました。

 こうして近代化を達成した日本は、中央集権国家を建設して西洋諸国の仲間入りをしただけでなく、富国強兵政策のもと強力な軍隊を造り上げ、他国を侵略して植民地を獲得する途を歩んで行くことになったのです。(了)

 

 

文献

1)アンナ・フロイト(黒丸正四郎,中村良平訳):アンナ・フロイト著作集2 自我と防衛機制.岩崎学術出版社,東京,1982.