江戸時代にはなぜ戦いのない世が実現したのか(1)

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 近代化が始まるまで、日本では江戸幕府によって、265年もの間安定した社会が維持されてきました。特に、島原の乱(1637~38年)が鎮圧されてから大塩の乱(1837年)が起こるまでの200年間は、まさに戦争のない平和な社会が実現されました。

 これは、世界史を見渡しても非常に希な出来事です。この平和は、ローマ帝国の覇権による平和であるパクス・ロマーナに倣って徳川の平和(パクス・トクガワーナ)と呼ばれています。なぜ江戸時代の日本では、戦争のない平和な社会を実現させることができたのでしょうか。

 

戦国時代の人々の気質
 フロイトが指摘するように、欲動の断念が文化の前提条件であるなら、どの文化にも人々から向けられる敵意が存在します。この敵意が攻撃欲動を生み、そして欲動の断念が人々の攻撃欲動をさらに増大させます。文化の宿命とも言える強大化する攻撃欲動が、遺憾なく発揮されたのが日本の戦国時代でした。
 渡辺京二の『日本近世の起源』1)によれば、戦国時代に日本に訪れた宣教師たちの記録には、当時の日本人の気質が次のように記されています。

 

 「ロドリーゲスは、『彼らが人間の身体を切ることに快感を覚え、そういう性向を持っていること、そして幼少の頃から機会あるごとにそのことをいかに練習するするかということになると、ただ驚くのほかない』と言い、ヴァリニャーノは『はなはだ残忍に人を殺す。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なことと考えてはいない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には不運にも出くわした人間を真二つに斬る者も多い。戦乱の際には民家を焼き民衆を殺戮し、その偶像の寺院といえども容赦しない。立腹した為、あるいは敵の掌中に落ちない為に自ら腹を断ち切って自害することも容易に行う』と書いている。
 要するにこの頃の日本人ははなはだ血なまぐさかったのだ」(『日本近世の起源』32頁)

 

 宣教師たちが描いた当時の日本人の姿、すなわち「人間の身体を切ることに快感を覚える」、「はなはだ残忍に人を殺す」、「些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切る」、「自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、不運にも出くわした人間を真二つに斬る者も多い」、「民家を焼き民衆を殺戮し、寺院といえども容赦しない」といった姿は、現代の日本人とはまるで異なった様相を呈しています。これが同じ民族とはとても思えないような、残忍、非情な気質として捉えられています。

 

江戸時代に大転換された人々の気質

 こうした日本人の気質が、江戸時代に大転換されました。
 江戸時代にはまず、社会体制が整備されました。徳川家康大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、幕藩体制を成立させたことによって、平和な社会体制の大枠が確立されました。家康は一国一城令によって幕府に対抗する軍事的拠点を取り除き、2代将軍秀忠は武家諸法度を発布して大名を厳しく統制しました。3代家光は参勤交代を義務づけ、強大な権力をもつ将軍と諸大名との主従関係を作り上げました。
 以上のような社会体制の確立は、徳川の平和が訪れるために重要な役割を果たしたでしょう。しかし、社会体制が確立されただけでは、長年にわたって平和を維持することはできません。平和な社会体制が確立されても、人々が戦国時代と同じように戦闘的であれば、いつ体制自体が転覆させられてもおかしくないからです。

 つまり、平和な社会が長く続くためには、人々の「はなはだ血なまぐさい気質」が変化することが必要であり、人々の精神が平和な社会に適合したものに生まれ変わらなければならないのです。

 

綱吉の大改革

 それにしても、人々のこころの有り様を変えることなど、果たしてできるのでしょうか。山室恭子の『黄門様と犬公方』2)によれば、それをやり遂げた人物こそ、五代将軍徳川綱吉だといいます。
 徳川綱吉は24年間にも渡って、犬や猫に限らず馬や鳥、果てはキリギリスや松虫に至るあらゆる生き物の殺生や虐待を禁じる種々の法令を出し続けました。これらの法令の総称が「生類憐れみの令」と呼ばれています。現代では、生類憐れみの令は行き過ぎた動物愛護の命令で、人々にとって迷惑千万な悪法として捉えられています。

 ところが山室は、生類憐れみの令が実行された前と後の時代で、殺伐から憐れみへと世の風潮が変化したと指摘します。山室はそれを示す例の一つとして、『近世風俗見聞集』に収められている老人の話しを取り上げています。

 

 「六七十年前までは奉公人が少しでも悪事を働けば、その家で手討ちにしたものじゃ。逃亡すれば捜し出して刀の試し物にしたので、一ヶ月に二度三度はあちこちの家で試し物があり、下々の作法もよく、刀や脇差しの切れ味をみるのにも便利であった。それが近年は、悪事を働く者がおらぬのか、あるいは主人が慈悲深くなったのか、とんとなくなってしまったことよ。(中略)
 昔は大身小身ともに、振る舞いや夜噺(よばなし)で集まった折の話題は、かつての合戦の話、先祖の手柄、あるいは当節の武道武芸の品定め、刀脇差についての蘊蓄、喧嘩口論の顛末、男色の噂、やわらかいところで茶の湯の話、せいぜいそんなものであった。それが近頃はすっかり変わってしもうて、食い物の話、遊興の話や損得勘定について、分別顔をした者は立身の自慢話、おとなしい者は碁や将棋や俳諧、若者は浄瑠璃・三味線、役者の評判といった具合で、武道の話題などまったく出ない。(中略)
 昔は一年に五度も七度も、それ刀よこせ鑓だなどと言い、下々も刀を差して尻端折(しりっぱしょ)りして騒ぐことがあったものだけれど、近年はそれ刀よ鑓よと言うほどの騒ぎが全くないので、今の若いもんは家の中では丸腰で、ずいぶんと不用心なありさまだ。まったく太平の世になったものだなあ」(『黄門様と犬公方』239-241頁)

 

 この物語が記されたのは、綱吉が没して十三年後に当たります。まさに、この老人が生きている間に、手討ちや試し物や刃傷沙汰が日常茶飯事で、人々の話題が武道一辺倒だった時代から、そうした殺伐たる慣行がきれいさっぱり消滅し、儲け話や出世談や役者の評判が関心の的となる時代へと大きく変わりました。

 そして、足かけ三十年にも及ぶ綱吉の治世が、この六、七十年のど真ん中に位置することから、この風潮の変化の一部は、生類憐れみの令によって仁心が涵養されたおかげではないかと山室は指摘しています。

 

不屈の綱吉

 社会の風潮がこのように変化したのは、なにも偶然の産物ではありません。生類の対象は動物だけではなく、捨て子、捨て病人の禁制や行き倒れ人保護など、人間の弱者にも向けられていました。そもそもこの法令には、人々の心中に「仁心」「慈悲の志」を涵養することが目的であるとはっきり記されているのです。
 井沢元彦も『逆説の日本史』の中で、綱吉の治世の前後で「世の中のことはすべて武力で解決すればいい。武力でやるのだから人が死ぬのは当然だ」という常識から、「すべて物事はおだやかに法と道徳にのっとって解決すべきだ。そして人命は尊重されるべきである」という常識へと大転換が起こったと指摘しています(『逆説の日本史13近世展開編 江戸文化と鎖国の謎』3)340頁)。
 それにしても、政治権力による政策によって人々に仁心や慈悲の志を植え付けることなど、古今東西を見渡しても成功した試しなどなかったのではないでしょうか。この試みが成功したのは、山室が指摘するように、どのような批判や抵抗にも揺らぐことなく、24年間にも渡って生類憐れみの令を出し続けた綱吉の不屈の姿勢があったからでしょう。

 

戦いへの忌避感

 その一方で、この政策が人々に受け入れられたのは、日本文化に伝承されてきた無意識の記憶痕跡があったからではないでしょうか。その記憶痕跡とはすなわち、日本人の無意識に存在する、戦いへの忌避感を蘇らせる記憶痕跡です。

 綱吉の揺らぐことのない長年の政策によって、日本人の無意識の記憶痕跡から戦いへの忌避感が呼び起こされました。この戦いへの忌避感が、仁心や慈悲の志を涵養させるような政策を受け入れることを可能にし、社会に満ち溢れていた戦闘的で殺伐たる風潮を廃したと考えられます。

 そうでなければ、綱吉が没した後に、「すべて物事はおだやかに法と道徳にのとって解決すべきだ。そして人命は尊重されるべきである」という常識は社会に根付かなかったでしょう。生類憐れみの令が人々の生活を圧迫していたとすれば、それはなおさらのことです。
 さらに言えば、綱吉の後に、再び武力ですべてを解決しようとする人間が現れてもおかしくなかったはずです。ヨーロッパや中国であれば、時をおかずして武断政治が復活したに違いありません。日本社会でその後も文治政治が続き、江戸時代を通じて人々に仁心や慈悲の志が受け継がれたのは、日本文化の深層に戦いに対する忌避感が存在したからこそだったと考えられます。(続く)

 

 

文献

1)渡辺京二:日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ.弓立社,東京,2004.
2)山室恭子:黄門様と犬公方.文春新書010,文藝春秋,東京,1998.
3)井沢元彦:逆説の日本史13近世展開編 江戸文化と鎖国の謎.小学館,東京,2006.