なぜ善人よりも悪人の方が救われるのか(2)

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 前回のブログでは、善人でも往生できるのだから、当然悪人は往生できるとする悪人正機説について概観しました。そして、善人とは自分の悪に気付いていない人であり、悪人とは自分の悪に気付いている人であるという親鸞の人間観についても検討しました。

 今回のブログでは、親鸞が自らの思想を形成する過程で大きな影響を与えた、聖徳太子との関係について言及したいと思います。

 

報恩感謝の念仏

 『歎異抄』で述べられている親鸞の思想ついて、もう少し続けましょう。

 親鸞の門弟である唯円は、悪人をも救ってくれる阿弥陀仏の力について、『歎異抄』の第十四段で次のように述べています(以下の現代語訳は、『ひろさちやと読む歎異抄1)を参考にした、筆者による意訳です)。

 

 阿弥陀仏の光明に照らされることによって、お念仏を称えようと一念発起するときに絶対に揺らぐことのない信心をいただけるのであって、そのときすでに浄土で仏になることが約束されているのである。そして、この世で臨終すれば、もろもろの煩悩や往生の妨げとなるものがなくなって、ものごとの真理を悟らせていただけるのだ。このような阿弥陀仏の悲願がなかったならば、わたしたちのような浅ましい悪人が、どうして輪廻転生から解脱できようか。そのため、わたしたちが一生の間に称える念仏は、みなすべて阿弥陀如来阿弥陀仏)の本願の恩に報い、その徳に感謝するためのものだと思うべきである。

 

 われわれは浅ましい悪人である、と唯円は言います。そして、浅ましい悪人であるから、たくさんの煩悩や往生の妨げになる業を抱え、輪廻転生からは永遠に解脱できないのです。

 したがって、悪人であるわれわれは、阿弥陀仏の本願にすがるしか残された道はありません。阿弥陀仏の力によって、絶対に揺らぐことのない信心をいただくことができたとき、浄土で仏になることが約束されます。つまり、われわれのごとき悪人が極悪浄土で仏になれるのは、すべて阿弥陀仏の本願の力によるとしか考えられません。だからこそ、われわれが称える念仏は、阿弥陀仏の恩に報い、阿弥陀仏の徳に感謝するための念仏、すなわち報恩感謝の念仏でなければならないと唯円は訴えます。

 

絶対他力
 ここで、「絶対に揺らぐことのない信心がいただける」と記されていることに注意しましょう。自らの力で阿弥陀仏を信心するのではなく、阿弥陀仏の方からわれわれに信心が与えられます。これは、信じる段階からすでに阿弥陀仏の力が働き、その力に頼ることを意味しています。信心ですら、すでに自力ではないのです。

 このように浄土真宗では、自力の行が徹底的に排されて行くことになりました。その代わりに、阿弥陀仏の力がいっそう強調されます。もはや阿弥陀仏は全能の力を有する存在となり、阿弥陀仏の本願は絶対であると考えられるようになりました。これを浄土真宗では、「絶対他力」と呼びます。

 このように浄土真宗では、まず人間の無力さが強調されます。悟りを得るための自力の行は、いっさい意味のないものとされています。それだけでなく、気づいているかどうかの違いだけで、人はみな悪人だと考えられています。そして、すべての悪人を漏れなく極楽浄土に往生させてくれることから、阿弥陀仏の力が絶対視されるようになりました。

 つまり、絶対他力の思想が構築される経緯を時系列的に表現すれば、まず悪人としての人間ありきであり、次に悪人としての人間を救うために阿弥陀仏が絶対の力を有していると考えられるようになったのです。

 

親鸞聖徳太子
 このように絶対他力の思想は創られたのですが、その構築の過程には意外な人物の影響が認められます。
 浄土真宗の教義が創られるためには、親鸞の師であった法然の思想が重要な役割を果たしたことは言うまでもないでしょう。ですがもう一人、法然に劣らぬ重要な役割を担った人物がいます。誰あろう、それが聖徳太子です。
 親鸞は、藤原氏の流れをくむ貴族、日野氏の家に生まれたと言われています。9歳で仏門に入った後、天台宗の総本山である比叡山で学ぶことになりました。しかし、どんなに修行に励んでも悟りを開けなかった親鸞は、29歳のとき比叡山を降り、百日間の参籠を行うために京都の頂法寺・六角堂に入ります。六角堂は、聖徳太子がその地で沐浴をした際に、持参していた仏像から受けたお告げに従って建立されたとされる寺院です。
 六角堂に籠もる10年前に、親鸞は大阪の磯長(しなが)にある聖徳太子廟にも3日間参籠しています。そして、2日目の深夜、聖徳太子から「汝の命はあと10年である。命が終わると速やかに、清らかな浄土に入るであろう」という夢告を受けていました。それから10年の月日が過ぎた今、夢告の意味を理解するために、親鸞は六角堂で決死の祈願を続けたのです。

 

聖徳太子のお告げ

 参籠を始めて95日目の夜明け、夢うつつの親鸞の前に救世観音が現れ、次のように告げたといいます。

 

  行者宿報設女犯
  我成玉女身被犯
  一生之間能荘厳
  臨終引導生極楽

 

(現代語訳)

 修行者であるそなたが、自らに宿る女犯の煩悩に悩むのなら、わたしが美しい女となり、この身でその女犯の煩悩を受けとめよう。
 そして、そなたが生きている間はその身を厳かに飾り、臨終の際には極楽に生まれ変われるように導こう。

 

 これが有名な、「女犯の夢告」と呼ばれるものです。この夢告には、二通りの解釈が可能です。一つ目は、この夢告が、女犯の煩悩を妻帯によって充足させる認可を、救世観音から得たとする解釈です。そしてこの夢告が、後に親鸞が妻帯することに繋がり、やがて浄土真宗で妻帯が許されて行く端緒になったと解するものです。つまり、この夢告の主題を、あくまで僧侶の妻帯を可能にしたことに置く捉え方です(このように解釈する場合には、後半部の訳は、「そして、身を飾って一生の間そなたに寄り添い、臨終の際には極楽に生まれ変われるように導こう」とする方がよいでしょうか)。

 ただし、この点を強調しすぎると、親鸞の人生における六角堂での夢告の役割を見えにくくさせてしまうでしょう。中村生雄が『カミとヒトとの精神史』2)で指摘しているように、親鸞ほどの人物が妻帯を可能にした内容の夢告によって、生涯の転機を確信したとは想像しにくいからです(同183頁)。

 

煩悩を克服しなくてもいい

 もう一つの解釈は、この夢告は、親鸞が19歳の時に聖徳太子廟で受けた夢告に対する回答だと捉えるものです。すなわち、「汝の命はあと10年である。命が終わると速やかに、清らかな浄土に入るであろう」という内容に対しての回答を示していると理解するのです。
 比叡山の堂僧として戒律を守り、10年もの間修行に明け暮れた親鸞は、ついに悟りを開くことができませんでした。悟りを開けなかった要因の一つに、煩悩の問題があったでしょう。人には分かち難く煩悩がついて回ります。その煩悩は、いかなる修行によっても容易には克服できません。そこで夢告の中の救世観音は、その煩悩を自らが解消しようと親鸞に告げました。

 したがって、「修行者であるそなたが、自らに宿る女犯の煩悩に悩むのなら、わたしが美しい女となり、この身でその女犯の煩悩を受けとめよう」という内容は、単に煩悩を克服するためだけの修行には励まなくてもよいと説いている、と捉えるのです。
 その上で夢告の後半部は、親鸞に極楽浄土に往生できることを予言しています。つまり、煩悩を克服しなくても極楽往生が約束されることを救世観音は示しました。しかも、「そなたが生きている間はその身を厳かに飾り」と記されているように、生きている間の人生さえも、厳かなもの、意味のあるものに飾ってくれるというのです。

 

修行者から念仏者へ

 この夢告によって、親鸞の10年来の疑問は氷解したでしょう。「汝の命はあと10年である」というお告げは、修行者としての命を指していました。修行者としての親鸞は、このときに終わりを迎えました。そして、「命が終わると速やかに、清らかな浄土に入るであろう」とは、浄土への往生を約束された新たな人生が始まることを意味していました。しかも、その人生は、念仏者として厳かで意味あるものになると約束されました。

 こうして、修行者としての親鸞は死に、念仏者となって親鸞は生まれ変わりました。このときの親鸞は、精神内界において、いわば「死と再生」を体験したのです(『カミとヒトとの精神史』217頁)。
 この解釈に拠れば、六角堂で得た夢告は、行き詰まった親鸞の信仰に新たな道を示す役割を果たしたことになります。親鸞にとってこの役割は、妻帯を可能にしたことよりもさらに重い意味を持っていたのではないでしょうか。だからこそ、この夢告を契機に親鸞は劇的な回心を遂げ、それはやがて浄土真宗の思想へと結実して行くことになりました。
 親鸞のこうした一連の体験を導いたのが、他ならぬ聖徳太子でした。救世観音は、聖徳太子の本地(本来の姿)だと考えられています。つまり、磯長廟で親鸞に10年後を予言しただけでなく、六角堂で親鸞に往生を約束し、法然のもとに導いたのも聖徳太子だったことになります。このように親鸞にとって聖徳太子は、人生の道標を示してくれた存在だったといっても決して言いすぎではないでしょう。(続く)

 

 

文献

1)ひろさちやひろさちやと読む歎異抄 心を豊かにする親鸞の教え.日本実業出版社,東京,2010.

2)中村生雄:カミとヒトの精神史 日本仏教の深層構造.人文書院,東京,1988.