日本人は無宗教なのか(2)

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 前回のブログでは、一見無宗教にみえる日本人は、和の文化の規範に従って生活していることを検討しました。そして、その規範の根底には、対人恐怖が存在することを指摘しました。

 今回のブログでは、この規範によって、日本人の集団がどのような行動をとるのかについて検討したいと思います。

 

集団の和を保つ

 集団全体での行動規範については、どのような特徴があるのでしょうか。そこにも和の文化が影響を及ぼしています。日本人にとって最も大切なことは、強者が君臨することでも、優れたものが残されることでも、正義が追求されることでもありません。社会や生活共同体が、平和で温和で和やかなことでした。そのため集団全体で行動を決定する際にも、集団の和が保たれることが第一義的に重要視されます。

 たとえば戦後の復興過程で、日本経済は自由主義陣営の中にあって資本主義体制を採りましたが、その内実はきわめて日本的な要素の濃いものになりました。
 日本の会社のかつての特徴として、終身雇用制と年功序列制があります。これらの制度は、日本の会社が利益を追求する目的だけでなく、生活共同体としての役割を担う存在になったことを示しています。日本の会社は、労働者が労働力を提供し、その対価として給与を得るだけの場所ではなくなり、社員の人生そのものをまるごと支える共同体になりました。

 戦後の日本で重工業が発展し、会社への就業人口が増加するにつれこの傾向は強くなりました。戦前の村落共同体に見られた日本社会の特徴、すなわち何よりも和を重視しながら、支え合い協力し合って農業などに従事する生活態度が、そのままの形で会社に持ち込まれました。農村で農民が協力して一所を懸命に耕したように、会社では全社員が和を重視し、協力して一生を懸命に会社に尽くして働いたのです。

 

生活共同体になった組織

 生活共同体になったのは、なにも企業に限ったことではありません。農村や地域共同体のみならず、公務員の働く官庁や医療・教育現場、そして政治の世界に至るまで、様々な領域において村落共同体に擬した共同体が形成されました。新たな共同体の内部では伝統的な共同体に擬したルール(掟)が形成され、人々はそのルール(掟)に従って生活を送るようになりました。日本に「護送船団方式」や「談合」といったおよそ自由主義的ではないルールが現れ、多くの「天下り団体」が出現したのはそのためです。

 また、日本の政治が民主主義の原理によらずに「永田町の論理」で動いたのも、永田町が一つの共同体になったからだと考えられます。こうして戦後の日本には、伝統的な地域共同体のルールを踏襲した、いくつもの新しい共同体が生まれました。そのため英米式の国家形態を採りながらも、日本の伝統に基づいた、日本式の自由主義や民主主義、そして日本式の資本主義が形作られていったのです。

 最近、リニア中央新幹線の建設に対して、日本を代表する大手ゼネコン間の談合が問題になりました。これは建設業界がひとつの共同体として存在し、各企業間の和を尊重していることの現れです。それは決して、企業の利益を優先した結果ではありません。なぜなら、談合が明るみに出れば社会から非難を受けて企業イメージが低下し、その後の業務に大きな不利益を被るからです。そのような危険を冒してまでも談合を行うのは、ゼネコン各社が互いに競争相手ではなく、共存を目指す仲間という意識が強いからでしょう。競争入札における談合は違法な行為ですが、日本社会においては、法律よりも和の規範の方が重要なのです。

 今回談合を自白して訴追を免れた企業がありますが、この企業は短期的には不利益を免れても、長期的には建設業界から信頼を失う危険があるのではないでしょうか。

 

集団の意思決定方法

 集団の行動を決定する際には、集団の和が乱される可能性が高くなります。意思決定が、集団の全員にとって不満のないものになるときには問題はありませんが、そのような場合は実際には希です。むしろ集団で決定を下さなければならないときは、意見の対立が生じることの方が圧倒的に多いでしよう。この場合にどのような決定方法を採るのかで、その文化の特徴が明らかになります。
 和を最重視する日本社会では、集団の決定は、成員の全会一致が目指されます。たとえ決定のプロセスにおいて意見の対立が生じようとも、最終的には互いが意見の違いを乗り越え、一つの意見にまとまることが必要となります。その際に、集団の成員が遺恨を残さないことが最も大切なこととされます。遺恨はやがて集団の和を乱し、新たな諍いや争いの火種となるからです。そうなってしまっては元も子もありません。

 

政治における方針の決定

 この意味で、民主主義で採用されている多数決による決定は、日本文化には馴染まない方法です。日本人の感覚で言えば、多数決を行えばその決定に反対の人間がいることが明らかになり、和が保たれていないことが衆目に晒されるからです。

 そこで日本社会では、多数決を行う場合でも、なるべく反対者の不満が残らないように配慮がなされます。たとえば、強引に多数決に持ち込むのではなく、反対意見に歩み寄って反対者の顔を立てたり、反対意見を足して2で割ってから多数決を行うことすらあります。後者の場合は、何のために採決をするのか分からなくなってしまうのですが。
 実際の政治の世界に、興味深い実例があります。自由民主党の事実上の最高意思決定機関である総務会での慣例です。議題に反対する議員は、まず徹底的に反対意見を述べます。充分に話し合った後に、通常であれば多数決によって意思の決定がされるでしょう。しかし、自民党の総務会はそうではありません。どうしても意見が折り合わない状況が生じた場合には、少数側の反対議員は、最終的に「こんなところにはいられない」とか、「トイレに行って来る」と言って部屋から退出してしまいます。そして、残っている議員たちだけで採決を行い、結果的に全会一致という形で方針を決定するのです。

 反対議員の主張を最後まで尊重しながらも、決定だけは全員一致で行うという究極の折衷案です。これなどはまさに、典型的な日本式の意思決定方法であると言えるでしょう。

 

下の者に合わせる

 いずれにしても、日本社会では、本来は和を乱さないために全員一致で決定することが望ましいと考えられてきました。そのために、互いが歩み合って皆が納得できる意見を探るという方法に加え、より切迫している者、より窮している者の意見に合わせるという方法も採られます。本当に困っている者に、多少でも余裕がある者が合わせるのです。

 この場合は、意見が調節されるというよりも、より切迫している者、本当に困っている者の意見に皆が従います。場合によっては、単に声の大きい者、切迫しているかのように振る舞う者に従ってしまうこともあるでしょう。これを単純に言うと、上の者が下の者に合わせることによって、集団の調和をはかるという方法になるでしょうか。
 日本社会には、このような「上の者が下の者に合わせる」ことを行動規範とする傾向があります。これは様々な場面において認められ、「できる者ができない者に合わせる」、「豊かな者が貧しい者に合わせる」、「体力のある者がない者に合わせる」、「若者が老人や子どもに合わせる」などどいった行為に現れます。そのため、日本社会には傑出した個人は現れにくいものの、その一方で、集団全体としては一定の調和を保つことが可能になります(話しがやや逸れますが、江戸時代の男性が結った「まげ」は、壮年以降の男性でも可能な髪型、つまり髪が薄くなっても可能な髪型として広まったのではないでしょうか)。

 

人格者に委ねる

 最後は、いよいよ全員一致が難しくなった際に、話し合いをやめるという方法もあります。これ以上話し合いがこじれると和が乱れ、争いが起こりかねないという状況になると、話し合いそのものが中止されます。そしてこの場合は、直接の当事者による決定を放棄して、双方が納得する第三者に決定を委ねます。
 この第三者は、双方に利害関係のない相応の社会的地位の者が選ばれる場合もありますが、多くの場合は為政者がこれに当たります。問題がこじれてしまった場合には、「お上に決めてもらう」のです。その際に人々は、「この人に任せておけば悪いようにはしないはずだ」という信任を託すことと引き替えに、決定には黙って従うことが求められます。ここでも、争いを引きずるより、集団の和を保つことが優先されます。
 そのため、第三者が決定を行う際に最も重要なことは、何が社会に望ましいかや何が正義であるかよりも、双方にとってどれだけ不満が残らないかになります。双方に不満を残さない決定をするためには、人情の機微を熟知し、しかも利害からは超越した人物であることが望ましいでしょう。日本人が為政者に、政治手腕よりも人生経験の豊かさや人柄を求めるのはそのためでしょう。日本の政治土壌は、「権力は絶対であり、権力の暴走を防ぐために常に監視を怠ってはならない」という哲学から生まれた欧米の政治制度とは、根本的に異なっているのです。

 

日本教

 日本社会における個人と集団の行動は、以上のように和を第一義的に考える規範によって決定されてきました。この規範は明文化されておらず、日本社会に古から伝承された“暗黙のルール”によって決められています。ここで挙げてきた例は、そのごく一部です。この暗黙のルールの一つ一つが和の文化の教義になっているのであり、この暗黙のルールの総体が日本社会の行動規範を形作っています。

 日本人は無宗教なのかについて検討してきましたが、宗教が社会の規範を作り、人々が生きるための指針を与えるものであると定義するならば、日本には和を基準とした確固たる規範が存在しました。山本七平はそれを「日本教」と呼びました。日本人はそれを宗教として意識せず、自らを無宗教ととらえてきたにすぎなかったのです。

 今後のブログでは、日本教がいかに強固で、日本社会や日本人の行動を強固に規定したかを、個別のテーマを通して検討していきたいと思います。(了)