日本人は無宗教なのか(1)

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 日本人は無宗教だと言われます。あなたの宗教は何ですかと尋ねられた時に、信じている宗教は特にありませんと答える人が多いでしょう。日本人はこれを当たり前のことととらえていますが、無宗教と答えると、外国の人からはきちんとした考えを持たない、倫理観のない人とみなされるようです。これは宗教に対する認識が異なること現わしているのでしょうか。それとも日本人は、本当に宗教を持たない民族なのでしょうか。

 

和の文化

 聖徳太子以来、日本社会には和の文化が連綿と受け継がれてきました。一方で、日本社会には八百万の神々を戴く神道が存在しており、後に仏教や儒教キリスト教といった宗教が伝えられました。これらの宗教は、和の文化の中で変容しながら、今日の日本社会の中で共存しています。

 その共存の仕方は非常に特異で、各宗教を奉じる集団が日本社会の中で共存しているというより、むしろ一人の個人の生活の中に各宗教が共存していると言った方が正確ではないでしょうか。お宮参りをし、初詣をし、クリスマスを祝い、教会で結婚式を挙げ、仏壇やお墓を参り、論語を愛読する人がいても、日本では常識人とみなされるでしょう。世界を探しても、このような共存は例がないと思われます。
 なぜ、日本社会ではこのような特異なことが起こり得るのか。それは、日本社会には古来から強固な行動規範が存在していたからです。すでに強固な行動規範が存在していたからこそ、新たに入ってきた宗教は、古来からの行動規範に弾かれました。新たな宗教が日本社会で生き残ろうとすれば、元来からある強固な行動規範を避け、形式的な儀礼を踏襲させるしかありませんでした。その結果として、残された形式的な儀礼が、各個人の生活の中に組み込まれることになりました。
 それではいったい何が、日本社会に存在する強固な行動規範の正体なのでしょうか。それこそが、和の文化による行動規範でした。和の文化によって、新たな宗教は日本社会の中で変容してしまったのです。

 

明文化できない規範

 では、それほど強力な力を持っている和の文化の実体とは、どのようなものなのでしょうか。その特徴を羅列して述べたいところですが、これが簡単にはできません。なぜなら、和の文化には強力な教義や行動規範があるはずなのに、それらが明文化されていないばかりか、わたしたち自身がその内容を意識することすらできていないからです。この点が、自分たちは無宗教だと日本人が思っている最大の理由であとると考えられます。
 しかし、当然ではありますが、わたしたちが和の文化を意識していないでいることは、和の文化に規範が存在しないことを意味するのではありません。むしろ、和の文化を意識しないでいられるほど、和の文化の規範はわたしたちの中に浸透しているのです。その規範の明文化を、以下で試みてみましょう。

 

和を保つこと

 日本社会には、他の宗教の行動規範を受けつけないより強固な行動規範が存在しています。その行動規範で最も優先されるのが、言うまでもなく和を保つことです。これは、個人としての行動においても、集団としての行動においても当てはまります。
 まず、個人としての行動から検討してみましょう。

 和の文化に属する個人は、和を乱すことのないように、なるべく他人と同じような行動を取ることが求められます。他人の動向を気にし、さらに共同体全体の動向を意識して、そこから外れないように行動することが必要とされます。それが個人にとって安全、安心に繋がるのであり、一方では、共同体から一人前の大人として認められることのなるのです。

 では、和を乱さないために、和の文化にはどのような行動規範が存在するのでしょうか。
 日本社会では、西洋のような絶対的な概念やイデオロギーの追求は行われませんでした。絶対的な概念やイデオロギー間の対立は、人々の対立を助長させて、悲愴な争いや戦いを引き起こしかねないからです。また、絶対的な概念やイデオロギーを主張し合えば、戦いは相手を完膚無きまでに叩き潰すまで終わらなくなるでしょう。
 そうならないために、日本社会の規範は概念やイデオロギーに根拠を負うことなく、村や町などの生活共同体において暗黙裏に決定されました。そこには明文化されたルールはなく、「世間」(や「ご先祖様」-今ではあまり言われなくなりましたが)に対して恥ずかしくないように振る舞うという行動規範となって存在しました。

 この行動規範は、明文化されていないからといって、決して強制力のないものではありません。恥ずべき行為は生活共同体の中で極めて厳密に決定されており、行動規範から外れることは、恥をかいて汚名を負うことになります。さらに恥ずべき行為が続けられた場合は、「村八分」になって共同体から追放されることも起こり得るのです。

 

恥の文化

 この「恥」を基本とした規範は、人と人との関係をもとにして生まれています。恥をかくということは面目を失うことですが、この面目とは、世間に対する名誉のことです。つまり、恥をかくとは世間に対して名誉を失うことであり、生活共同体の中で体裁を失い、人から非難の眼差しを受けることに繋がります。
 日本社会の規範は、根源的には神や法に根拠を置いていません。日本にはいわゆる宗教的な規範は存在していないか、あってもその影響力は僅かです。それに代わる規範の根拠は、「世間」や「ご先祖様」といった無名の人に、またはその無名の人の集合体である生活共同体の「眼」に存在しています。

 人々は、世間体や他人の眼を極端に気にしながら生活してきました。その世間体や他人の眼の根底に流れる規範とは、争いを避け、生活共同体の中で和を保つことでした。その結果として、自己をことさら主張せず、謙虚さや奥ゆかしさを尊ぶ「恥の文化」が育まれると共に、他者を畏れ、礼節をわきまえる対人関係が熟成されていきました。
 これに対して、西洋文化にみられるような「罪」を基本とした規範は、神と人との関係をもとに生じています。旧約聖書では神は人と契約を結び、この契約を忠実に履行した場合に限って民族には栄光が与えられます。逆に、契約を破った場合には神に対して罪を犯したことになり、この罪に対して神から人に罰が与えられます。西洋の道徳や社会の規範は、この神に対する罪の意識を原点として形成されています。罪の意識を基本とする社会規範は、神が社会の表舞台から退場した後も、法の精神となって受け継がれています。

 

対人恐怖

 和の文化の行動規範について、もう少し掘り下げて考えてみましょう。日本人の行動規範の根拠は神や法にあるのではなく、他者の眼差しや世間体に置かれています。なぜ、日本人は他者の眼差しや世間体を極端に気にし、眼差しや世間体に背かないように行動しようとするのでしょうか。

 その根底には、人に対する恐怖感、つまり対人恐怖が存在しています。人が怖いからこそ、人の眼や人の評価に敏感にならざるを得ないのです。
 日本人は、古来から自然に畏怖の念を抱いて生きてきました。自然の中に八百万の神々がいるのはそのためです。しかし、それでも日本人が最も恐れるものは、自然や自然が引き起こす災害ではありません。ましてや西洋人が恐れるような「神」でも、中国人が恐れる「天」でもありません。日本人が最も恐れるのは、他ならぬ「人」なのです。
 なぜ日本人は、「自然」や「神」や「天」でなく「人」を恐れるか。それは日本人の成り立ち、すなわち、日本人が戦いに敗れ続けて日本列島に流れ着いた人々の集合体であることが、大きな要因となっているのではないでしょうか。

 日本人の祖先たちが最も多く味わった恐怖は、戦いの恐怖でした。そのため最も恐れる対象は、戦いを引き起こす人間そのものでした。日本人の無意識には、こうした戦いへの忌避感と共に人に対する恐怖感、すなわち対人恐怖が存在し続けてきたのだと考えられます。

 

和の共同体

 この対人恐怖は、日本人の行動規範に強い影響力を及ぼしています。日本社会では、新たに村落共同体に入った者は他の成員と同じ行動規範が求められます。「郷に入れば郷に従え」が徹底されます。そのことも、日本文化の根底に対人恐怖が存在しているからでしょう。戦いに敗れ続けた日本人は、人間に対して心の底では恐怖心を抱いています。そのため他者が自分たちと同じように、和を尊重する行動規範を身につけない限り、安心して接することができないのです。
 ところが、外部の人間が自分たちと同じ行動規範を身につけ、共同体にいったん受け入れられると、恐怖の対象であった他者は助け合う身内と見なされるようになります。共同体に溶け込めば、人と人との繋がりに組み入れられ、人の「輪」の中に入っ行くことができます。

 そうなればたとえ困窮することがあっても、共同体が救済の手を差し伸べてくれます。このような共同体の内と外で繰り広げられる対人関係のダイナミズムが、和の文化にみられる際立った特徴の一つだと言えるでしょう。(続く)