聖徳太子は実在したのか(1)

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 大陸に隋や唐といった強大な中央集権国家が誕生し、その圧迫を受けて、日本社会が前方後円墳体制から中央集権的な律令体制に移行する過程で、武力の優劣を基準としない新たな文化が育まれました。それが、現在まで日本社会に連綿と受け継がれている和の文化です。

 ところで、和の文化の創始者ともいえる聖徳太子が、実在しなかったのではないかという議論が巻き起こっています。今回のブログでは、この問題について検討したいと思います。

 

聖徳太子は架空の人物

 和の文化の登場は、推古朝で制定されたとされる十七条憲法に始まります。その冒頭には、「和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為(せ)よ」と記されています。これは、「和を何よりも大切にし、敵対しないことを根本にしなさい」という意味でです。つまり、和が最も重要なものであることに加えて、敵対しないため、さらに言えば争いや戦いを起こさないための方法としての和の重要性が説かれています。
 聖徳太子厩戸王(うまやどおう))が創ったと言われる十七条憲法のこの一文は、その後の日本文化の根底を形作ったといっても過言ではないでしょう。この後に日本社会は和を尊重する文化を育み、日本人は何よりも和を優先する行動規範を持つ民族になっていったからです。

 ところが、聖徳太子が実在の人物であったのかどうかが論争になっています。この論争に先鞭をつけたのが、大山誠一が1999年に著した『〈聖徳太子〉の誕生』1)です。同書の中で大山は、聖徳太子の存在について疑義を唱えます。

 

 「伝説や信仰の世界の話ならともかく、歴史上の人物としての聖徳太子の実像は、ほとんどがすべて謎につつまれているのである。(中略)私は、この数年の間、聖徳太子の真実を求めて関係史料の再検討を試みてきたのであるが、その結果、一般の方には意外かも知れないが、次のような結論に達した。それは、聖徳太子に関する確実な史料は存在しない。現にある『日本書紀』や法隆寺系の史料は、厩戸王聖徳太子)の死後一世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それ故、〈聖徳太子〉は架空の人物である」(『〈聖徳太子〉の誕生』4-5頁)

 

 こう述べた後で大山は、聖徳太子の実在を証明するとされた法隆寺の様々な遺品が、実は後世に捏造されたものであること、『日本書紀』の聖徳太子を記述した記事で、歴史的事実と認められるものが何ひとつ存在しないことを詳しく検証しています。

 

聖徳太子」はなぜ創られたのか

 では、なぜ「聖徳太子」という架空の人物は創られたのでしょうか。その理由を大山に従って要約すれば、以下のようになります。
 当時の日本では、律令国家を構築する過程で、国史としての『日本書紀』が編纂されていました。その中に、中国の皇帝と対比され得るような天皇像を示す必要がありました。つまり、皇室の歴史の中に儒仏道の中国思想を踏まえた聖人がいて、その人物の活躍によって今日の日本があることを示す必要がありました。この条件に見合う人物として、厩戸王に白羽の矢が立ちました。

 厩戸王が一世紀前の人物で、しかも子孫が絶えていたことも史実を捏造するのに好都合でした。さらに、厩戸王の弟の久米王は、一説ではヤマトタケルのモデルと考えられています。『日本書紀』の中でヤマトタケル聖徳太子は、英雄と聖人を現わす一対の存在として描かれているのです。

 

聖徳太子信仰

 その後に、なぜ聖徳太子へ信仰は一般庶民へと広がったのでしょうか。大山は、『聖徳太子と日本人』2)の中で、鑑真の来日を契機に聖徳太子信仰が大きく発展することになったと指摘しています。

 

 「鑑真(がんじん)周辺による恵思(えし)後身説の創作である。〈聖徳太子〉は、恵思(えし)禅師という中国の高僧の生まれかわりという、まさしく、時と国境を越えた『聖徳太子時空超越』説の登場である。そして、ここで使われた輪廻(りんね)の発想は、直ちに土着化する。最澄が、〈聖徳太子〉の玄孫と称し、天台宗を創始するからである。平安遷都(せんと)とともに、比叡山延暦寺は、国家守護の寺となった。その創建者が、〈聖徳太子〉の玄孫と称したのである。こうして、聖徳太子信仰は、拠点を奈良から京都へと移し、さらに大きく展開することになる」(『聖徳太子と日本人』201頁)

 

 恵思は中国の高僧で、天台宗の開祖の智顗(ちぎ)の師にあたる人物です。聖徳太子はその恵思の生まれ変わりなのだといいます。そして鑑真は、戒律を伝える師を求めて唐に渡った日本の僧に、「かつて聖徳太子という方がおられ、二百年の後に仏法が日本で興隆すると言われたが、今がその時です。ですからどうか大和上が日本に来遊され、人々を導いていただきたい」と懇願されて来日したというのです(同上182頁)。大山は、鑑真の周辺が来日の正当性を主張するために、この説を創作したと指摘しています。
 一方、日本の天台宗の開祖である最澄は、鑑真がもたらした天台関係の書によって学んだと言われています。その最澄が今度は、聖徳太子の玄孫であると称したのです。つまり聖徳太子は、中国天台宗開祖の師である恵思の生まれ変わりであり、さらに日本天台宗の開祖の最澄にまで血脈を通じていることになります。こうした関係から聖徳太子信仰は、天台宗と共に広く一般に浸透したと大山は説明しています。

  さらに大山は、実際に聖徳太子像を創作したのは、唐から帰国したばかりの僧道慈だと指摘します。当時の最高権力者であった藤原不比等長屋王が、道慈に命じ、まったく新しい聖徳太子像を創作させました。その際に、自らの孫である首(おびと)皇子を天皇に即位させるため、皇位継承における皇太子の重要性を強調したいという藤原不比等の思惑が加わりました。そのため聖徳太子は、厩戸王の存命当時にはまだ成立していなかった皇太子という地位と、摂政という職位に就いていたとされたのです。

 

日本人の信仰
 しかし、聖徳太子信仰が誕生し、後に人々の間に信仰が深まって行く経緯は、以上の説明だけでは充分ではないように思われます。それは何よりも、信仰の問題としてです。日本人の信仰心を考えるとき、信仰の対象が架空の人物であるかないかは重要な問題になります。なぜなら、日本人が信仰の対象として重視するのは、思想の内容よりも思想を唱える人物そのものだからです。
 もちろん思想の内容が、どうでもいいというわけではありません。思想内容が時代や社会にとって適正であるどうかは、吟味されねばならないでしょう。しかし、日本社会においては、思想の内容が正しいかよりも、誰がその思想を唱えているかが重要になります。その人物が信頼に足る人物であるかどうかが重要な要素になるのです。誰々が 唱えた説なら間違いないだろうというわけです。

 さらに、思想が社会に広まっていく過程では、思想を伝える人物の人間性が問われることになります。伝える人が信頼できる人物であれば、伝える内容は厳しく吟味される必要がなくなるでしょう。逆に、胡散臭い人物だと人々から判断されれば、たとえその思想が正しくても日本社会では受け入れられない可能性が高くなります。これは日本文化が、人と人との関係を重視していることに起因しています。日本社会では神や仏、社会の法よりも、まず人間や人間関係が重視されるのです。

 

かけ離れた人物像

 聖徳太子信仰の問題に戻ると、聖徳太子が当時の為政者によって作られた架空の人物であっては、信仰の対象として問題が生じます。日本人にとっては聖徳太子という偉人こそが重要であって、聖徳太子が唱えた十七条憲法の精神だからこそ価値があるからです。聖徳太子が架空の人物なのであれば、架空の人物の名を借りた十七条憲法の精神など、日本人にとって重要な思想ではなくなってしまうでしょう。
 そのため日本書紀では、聖徳太子の偉人ぶりが特に強調して記されることになったと考えられます。これだけすばらしい偉人の唱える思想ならば、日本社会にとって間違いなく重要な思想になってゆくに違いないと人々に信じてもらうためです。ところが、聖徳太子の偉人ぶりを強調する余り、モデルとなった厩戸王とはかけ離れた人物像になってしまったのではないでしょうか。
 この辺りの事情は、「現人神」となった昭和天皇や、救世主キリストとイエスの関係に似ているかも知れません。歴史的な史料を科学的に分析すれば、現人神やキリストが実在しないように、聖徳太子は実在しなかったと結論づけられるでしょう。しかし、信仰の問題として捉えたなら、現人神やキリストが間違いなく実在したように、聖徳太子は紛れもなく実在したに違いないのです。

 

信仰における畏れの感情

 さらに、信仰という行為を考える際には、人々の感情にも注意を払う必要があります。信仰には聖なる対象に向けられる崇拝の念が存在しますが、そこには通常畏れの感情が伴われています。これは、旧約聖書を例に挙げてみれば明らかです。唯一、全能の神であるヤハウェは、ユダヤ民族を世界の支配者に選んでくれた神でしたが、その一方で、民族を殲滅させかねない恐ろしい面を有していました。だからこそユダヤの民は、神を畏れ、一心に神を信仰しなければならなくなりました。同様に、イスラム教徒がメッカのカアバ神殿に向かって礼拝する姿には、全能の神に対する畏れを見ることができるしょう。

 日本の神道においても事情は同じです。神道では、山や川、滝や高木などの自然や自然現象の中に八百万の神々を見い出していますが、そこには恵みだけでなく、様々な災難をももたらす自然への畏れの感情が伴われています。
 このように信仰には、尊崇と畏怖の両面が表裏一体になって存在しています。したがって、聖徳太子が中国の高僧の生まれ変わりで、日本社会に大きな影響を与えた偉大な聖人だったと教えられただけでは、尊敬の対象にはなり得ても、信仰の対象とはならないでしょう。(続く)

 

 

文献

1)大山誠一:歴史文化ライブラリー65 〈聖徳太子〉の誕生.吉川弘文館,東京,1999.

2)大山誠一:聖徳太子と日本人.風媒社,名古屋市,2001.