民主主義はなぜ根付きにくいのか(1)

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 人民が主権を持ち、人々の自由と平等を尊重する民主主義は、現代における理想の政治体制であるように思われます。そのため、民主主義を掲げる国家は世界に数多く存在します。しかし、人民が主権を持てなかったり、選挙における選択対象がなかったり、事実上の独裁者が存在するなど、実際には民主主義とかけ離れた政治体制であることが珍しくありません。つまり民主主義は、現実の社会ではなかなか機能せず、社会に根付きにくい制度なのです。

 その理由を検討するために、フロイト精神分析を紐解いてみましょう。

 

トーテムとタブー

 ここで民主主義を検討するために参考にするのが、『トーテムとタブー』1)です。1913年に発表されたこの論文は、フロイトエディプス・コンプレックスを人類の原点に位置づける端緒となりました。それとともにこの論文は、間接的にではありますが、民主主義の原理を示していると考えられるのです。

 

 フロイトは『トーテムとタブー』の中で、次のことに着目することから始めています。それはトーテミズムの基本を成すタブー、すなわちトーテム動物を殺さないこと、および他種族のトーテム仲間との性交を避けるという二つのタブーの存在です。

 未開人社会の多くには、トーテミズムが存在しています。トーテミズムとは、トーテムへの信仰、儀礼を基にした社会制度です。

 トーテムは、集団の祖先とみなされている動植物(または自然現象)で、その社会成員の同一性と保護のシンボルとされています。トーテム社会においては、トーテムを傷害することや食用にすること、時には見ること、触ることさえ禁忌とされています。また、同じトーテムに属する成員間では、たとえ血縁関係がない場合でも婚姻、さらには性交が許されないというタブーも存在しています。
 われわれには一見不可解に映るこれらのタブーには、どのような意味が隠されているのでしょうか。それを探ることが、未開社会の起源とその成り立ちを解明するためには不可欠であるとフロイトは考えました。

 

触れることの禁止

 それでは、未開社会のタブーをフロイトがどのように分析していったのかを、『トーテムとタブー』に沿いながら以下にまとめてみましょう。
 フロイトはまず、タブーのメカニズムを、強迫神経症と対比しながら解明して行きます。強迫神経症においてわれわれは、その強迫行為、たとえば何度も手を洗わなければ気が済まないといった彼らの行動に注目しがちですが、そうした行動の背後には、触れることの禁止、それは禁止されているものを思い浮かべることにまで拡張された接触の禁止が存在しています。何度も手を洗わなければいられないのは、この禁止に触れてしまいそうになったからに他なりません。
 では、その触れてはならないものの実体とは何なのでしょうか。そして、なぜ触れてはならないのでしょうか。

 実は強迫神経症者には、それらを理解することはできません。禁止は絶対に犯すことはできませんが、その理由については、彼らは一切意識することができないのです。このような性格を持つ接触の禁止こそ、未開社会にみられるタブーに共通する現代のタブーであるとフロイトは指摘します。

 それは未開社会においては、社会全体として存在したタブーが、現代においては個人の精神病理において存在することを意味しています。

 

禁止の背後に存在する欲望

 ところで、強迫神経症者における禁止は、成育史において、いつ、どのようなメカニズムによって成立するのでしょうか。フロイトは自らの診療経験をもとに、ごく幼少期に禁止が成立することを、抑圧のメカニズムと関連させて説明しています。そして、禁止の背後には無意識の欲望が存在すると指摘しています。
 抑圧は、幼少期に最初に成立する原抑圧と、その後に無意識の内容が意識に侵入することを防ぐ後抑圧に分けられます。ここで重要なのは、原抑圧の方です。原抑圧は、外部から強制され、押しつけられること(つまり、他者から禁止されること)によって成立します。人はこの原抑圧を受け入れることによって、社会的存在としてのスタートラインに立つことができます。こうして、社会から認証された自我の原点が形成されるのです。
 一方、抑圧されたものは無意識へと追いやられ、以後直接意識に戻ってくることはありません。それは、無意識に追いやられたものを呼び戻すことはすなわち、自我の原点に立ち返ることであり、さらには自我の原点を解体する危機に繋がることだからです。

 

殺人欲望

 それでは、抑圧によって意識され得ないものの実体とは何なのでしょう。フロイトは、その一例として、「愛する人に対する殺人欲望」を挙げています。
 フロイトは、健康な人の夢の分析から、「他人を殺そうという誘惑はわれわれにあっても予想以上に強く、しかもしばしば起こるものである」と指摘します。しかし、こうした欲望は無意識へと抑圧され、普段は決して意識されることはありません。それは欲望が抑圧される際に、(愛する人に対して)殺人欲望を向けてはならないという禁止のメカニズムが働いているからです。
 このメカニズムのために、殺人欲望を抑圧している神経症者は、その欲望を意識化することはできません。しかし、禁止を犯すことによって、自分の周囲の誰か(それは自分に最も近しい最愛の人たちの誰か)が害を被るだろうという漠然たる予感を抱きます。そのため、禁止された欲望との「接触」を避けようとして、強迫行為と呼ばれる「儀礼」に没入して行くことになるのです。たとえば、意識の中に生じた忌むべき考えを、手を洗うことによって洗い流してしまおうというように。

 さて、以上のように述べた後でフロイトは、強迫神経症による禁止を範として、「タブーとは、原始人のある世代にかつて外部から押しつけられたきわめて古い禁止なのだ」と結論します。そして、タブーを犯すことを恐れる一方で、彼らにはその禁止を犯したいという欲望が存在していると指摘しています。

 

トーテム動物とは

 では、トーテミズムのタブーに隠された欲望とは何なのでしょうか。ここで再び、未開社会に共通するトーテムとタブーの問題に立ち返ってみましょう。

 

 「トーテムは最初はただの動物にすぎなかった。その動物が個々の種族の祖先とみなされていた。トーテムは母系にのみ相続された。トーテムを殺すこと(あるいは食べること、これは未開状態においては同じことである)は禁じられていた。トーテム仲間相互間の性交渉は禁じられていた」(『トーテムとタブー』236頁)

 

 ここでは、トーテム動物は何を意味しているのでしょうか。

  フロイトは、「自分と動物が完全に同等であることを認める」という意味では、子供と動物との関係は、未開人と動物との関係によく似ていると指摘します。そして、「自分の欲求を率直に告白するという点では、子供にはおそらく謎としか思えない成人よりも、動物の方に子供は親しみを感ずるであろう」と述べたうえで、自らの症例である「ある五歳児の恐怖症の分析」を例に挙げています。
 これは有名な「馬恐怖症のハンス少年」であり、フロイトエディプス・コンプレックス理論を発展させるもとになった症例です。この少年は、馬が部屋の中に入ってこないか、噛みつきはしないかという恐怖を訴えていました。分析の結果、少年は芽生えつつあった母親への性的欲望を妨害する人物として父親を捉えていたのであり、彼は父親への憎悪と恐怖の感情を馬に移していたのだと推論されています。

 

トーテミズムとエディプス・コンプレックス

 未開人においても、同様の移行が存在していたのではないか。フロイトは次のように続けます。

 

 「われわれはこの観察によって、(中略)トーテム動物のかわりに父を当てはめる正当な理由があるものと考える。(中略)未開人自身がそういっているのであり、またトーテム制度が今日でも効果をもっているかぎり、彼らはトーテムを彼らの祖先または祖宗と名づけているからである」(『トーテムとタブー』257頁)

 

 フロイトは、ハンス少年が父親を馬へと置き換えたように、未開人が父親をトーテム動物に置き換えたのだと考えました。このように仮定した場合、トーテムとタブーの問題は、エディプス・コンプレックスと共通の原理を孕むものになるとフロイトは述べています。

 

 「もしトーテム動物が父親だとすれば、トーテミズムの主要な二つの命令、つまり、トーテミズムの核心をなす二つのタブーの掟、すなわちトーテムを殺さないこと、同一トーテムに属する女を性的目的に使用しないこと、この二つは内容的に、父を殺して母を妻としたエディプスの二つの罪と一致している」(『トーテムとタブー』257-258頁)

 

 トーテミズムのタブーの背後には、エディプス・コンプレックスと同様の欲望、つまり、父親を殺害し、母親(または父親が支配している女)と性交したいという欲望が隠されているのだとフロイトは指摘します。だからこそ、トーテム(=父親)を殺してはならないし、同一トーテムに属する女(=母親)と性交してはならないというタブーが成立します。
 こうしてフロイトは、トーテミズムの中に、エディプス・コンプレックスの存在を探り出しました。精神分析理論の核心に置かれるエディプス・コンプレックスは、現代社会だけに認められるものではなく、実はトーテミズムという人間社会成立の原点に端を発しているのだとフロイトは主張しているのです。

 さて、トーテミズムの中にエディプス・コンプレックスの存在を発見したフロイトは、次に未開社会においてトーテミズムという社会制度が成立した過程を推論して行きます。(続く)

 

 

文献

1)フロイト,S.(西田越郎 訳):トーテムとタブー.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.