資本主義はなぜ世界を席巻しているのか(6)

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 神が社会の表舞台から退場すると、欧米社会には神の代替者が現れました。資本主義の精神は、神の代替者によってかろうじて支えられました。しかし、神の代替者が社会から失われれると、資本主義の精神は変節せざるを得なくなりました。

 文化発展の最後にこうして現れたのは、「精神のない専門人」や「心情のない享楽人」でした。彼らは、「人間性のかつてない段階にまで登りつめたと自惚れている」とヴェーバーは指摘します。宗教的・倫理的な側面を失ったにもかかわらず、なぜ彼らは、人間性のかつてない段階まで登りつめたなどと自惚れることができたのでしょうか。

 引き続き、アメリカを舞台にして検討を続けましょう。

 

新自由主義

 ソ連が崩壊した後、アメリカ合衆国は世界で唯一の超大国になりました。自国の存在を脅かす存在が消失した今、アメリカは他国の紛争に介入することなく、孤立主義を守って専ら自らの社会だけに目を向けました。

 政治的には孤立主義が復活する一方で、経済ではかつての帝国主義時代のような膨張主義政策が採られました。この時期に経済面では、グローバル・スタンダードと名づけられたアメリカ基準の経済戦略が推進されて行きました。その戦略とは、市場原理主義を根幹に据えた、新自由主義と称する経済政策を世界に広めることでした。

 新自由主義では財政赤字を是正するための小さな政府が目指され、福祉や公共サービスの縮小、公共事業の民営化、労働者の保護廃止、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、市場の自由化などの政策が打ち出されました。これらの政策は、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権で採用されて一定の成果をあげました。

 さらに、クリントン政権下においては、国際通貨基金IMF)や世界銀行が融資を行う際の政策改善の条件に組み入れられ、新自由主義は世界中に広められました。そして、経済の対外開放と金融の自由化が進展した国々では、多くの企業や銀行がアメリカの資本に買収されて行きました。

 

金融資本主義とは

 新自由主義が進展すると、市場原理主義はさらに幅を利かせるようになりました。経済は市場が支配するようになり、市場から導かれた判断が正義だと考えられました。

 市場では利益が最大の価値基準となり、企業が社会に対してどのような貢献を行ったかよりも、企業がどれだけ収益を上げたかが重要視されました。そのため、長期的な展望よりも短期的に業績を上げることが目指され、経験や知識の蓄積が必要な「もの作りの文化」は廃れて行きました。

 実業の役割が減少し、金融が経済の主役に躍り出ました。金融工学をバイブルとした金融資本主義は、アメリカから世界に広まりました。世界の富はこのような経済の仕組みを確立したウォール街に集められ、アメリカは再び経済的な覇権を取り戻していったのです。

 

サブプライムローン問題

 2008年にアメリカの好景気を支えてきた金融バブルが崩壊しました。金融バブルが崩壊した直接の原因は、サブプライムローン問題でした。サブプライムローンとは、プライム(最上)層の下、つまり信用格付けが低い低所得者向けの住宅ローンのことです。
 アメリカでは2006年まで住宅価格が上昇を続けたため、債務者は住宅価格が値上がりした分だけ資産価値を得ることができました。住宅価格が上昇している時に住宅を転売すれば、ローンを返済したうえに、その差益を得ることも可能でした。しかも、この価格上昇分を担保に、新たに借り入れをする仕組みまで作られていました。アメリカの低所得者層は、住宅価格は上昇し続けるという「住宅価格神話」をもとに、借金に借金を重ねながら消費を拡大していました。
 いつ破綻するとも分からない危険なサブプライムローンは、証券化され、販売されました。その際にサブプライムローンのリスクは、他の安全な証券と組み合わされた金融商品にすることで回避されると考えられました。その根拠になったのが、金融市場のバイブルになっていた金融工学でした。金融工学を駆使して作られた金融商品には、格付け機関が高い信用保証を与えました。サブプライムローンを含んだ金融商品は、こうした経緯を経て世界中の金融機関が購入していたのです。

 

金融バブルの崩壊

 ところが、上昇を続けると見なされていた住宅価格が2007年の夏頃から下降を始め、遂に住宅バブルは崩壊しました。

 もともと返済能力のなかった低所得者は、住宅価格の低下によってローンの返済ができなくなりました。サブプライムローンの返済が滞ると、これに関わる債権が組み込まれた金融商品が信用を失い、市場での投げ売りが相次ぎました。

 サブプライムローンが数多くの金融商品に組み込まれていたために、金融商品そのものに対する信用喪失が連鎖的に広がりました。その余波を受けて、2008年の9月15日に投資銀行リーマン・ブラザーズが倒産しました。さらに9月29日に米下院が緊急経済安定化法案を一旦否決すると、ニューヨーク証券取引市場のダウ平均株価は、777ドルという史上最大の下げ幅を記録しました。
 また、子会社がサブプライムローン関連の金融商品を大量に保有していた保険最大手のAIGも経営危機に陥り、政府の管理下で経営再建を図ることになりました。同様の企業倒産や国有化が相次ぎ、金融機関の損失は拡大しました。全米企業収益の実に4割を占めていた金融部門の衰退は、アメリカ経済に深刻な打撃を与えました。アメリカで発生した金融危機は、さらにヨーロッパを中心に世界各国に連鎖的に拡大して行きました。

 

金融資本主義の精神

 金融とは本来、実業を営む企業の活動を助け、円滑にするために存在するはずでした。ところが金融資本主義が全盛を迎えると、この立場は逆転しました。金融資本が、企業を売買するようになったのです。

 その目的は企業を育てることにはなく、純粋に金融収益を上げることにありました。どれだけ安く買ってどれだけ高く売れるか、そしていかに利益を搾り取れるかに金融資本の目的は終始しました。金融市場では、額に汗して働くことを美徳とした古き良き時代の労働の精神は失われました。そこにあるのは、法に触れなければ手段を選ばず、企業や社会の将来には一切の関心を示さず、ひたすら金を儲け続けることに専念する姿勢でした。

 金融バブルが崩壊した後には、もの作り文化の衰退と格差の拡大が残されました。資本主義の変遷は、人々の精神にも影響を及ぼしました。絶え間ない労働こそ信仰の証しであると考えられたかつての資本主義の精神は、跡形もなく消え失せました。

 代わりに、金こそが神であり、多くの金を持つ者が神から全能の力を分け与えられると考えられました。金を得ることが人生の目的になり、金を得られた者が人生の成功者と見なされました。こうした拝金主義こそが、「金融資本主義の精神」でした。

 

マルクスの予言

 以上のような資本主義の精神の変節を、マルクスユダヤ教を通じて的確に予言していました。初期の著作である『ユダヤ人問題によせて』1)の中で、マルクスは「ユダヤ人の解放は、その究極の意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と指摘しています。
 ここでマルクスが述べているユダヤ教とは、ユダヤ教の現世的な側面のことです。彼は、ユダヤ教の現世的基礎は私利であり、ユダヤ人の世俗的な祭祀はあくどい商売であり、ユダヤ人の世俗的な神は貨幣であると喝破します。そして、貨幣が世界の支配的権力になったため、実際的なユダヤの精神が、今やキリスト教諸国民の実際的精神になっていると指摘しています(以上、同上57-59頁)。
 つまり、ユダヤの神である貨幣は、資本主義になったキリスト教諸国民の精神を支配するに至りました。そこで、ユダヤ人の人間的解放(さらにはキリスト教諸国民の人間的解放)を目指すためには、貨幣という神からの解放、すなわちユダヤ教からの人類の解放が達成されなければならいとマルクスは主張したのです。

 

貨幣という神からの解放

 貨幣が神になったという指摘と、貨幣からの解放こそが人類の人間的な解放であるというマルクスの主張は、まさに先見性に富んだ、そして正鵠を射た見解であると言えるでしょう。金融バブルが崩壊した後、マルクスが見直される風潮が生まれたのは至極当然のことでした。

 しかし現実には、金融バブル崩壊後も、人々が貨幣という神から解放されることはありませんでした。人々は相変わらず貨幣という神を崇拝し、金を得ることが人生の目的であり、金を得られた者が人生の成功者と見なされ続けました。

 それはなぜなのでしょうか。

 

「拝金教」の成立

 資本主義の精神は、全能の神から自らが救われていることを確証するために、善行を重ねるかのごとく働き続けることで育まれました。社会の表舞台から神が退場した後には、全能の神の代替者が資本主義の精神を支えました。しかし、神の代替者が失われると、資本主義の精神を支えるものは貨幣そのものになりました。つまり、神が失われた現代の資本主義社会では、貨幣が神の後継者になったのです。これを金を拝む宗教、すなわち「拝金教」と呼ぶことにしましょう。

 拝金教の教義は単純です。金こそが最も価値のあるもの、最も尊いものであり、世界の中心に位置するものであるということです。なにせ、金は神なのですから。むかし「お客様は神様です」と言った歌手がいましたが、「(お金を運んでくれる)お客様は神さまです」という意味だとすれば、まさにその通りでしょう。また、「愛は金で買える」と言ってひんしゅくを買ったIT企業の社長がいましたが、これも拝金教の信者同士であれば当然のことです。お互いが金こそ神だと信じているなら、金によって結びつくことこそむしろ神聖な行為だと言えるでしょう。これはキリスト教の信者同士が、結婚式で神を介して結ばれるのと同じ構造だと考えられます。

 

金という全能の力

 もう一つの教義が、金を持つ者が神から全能の力を分け与えられるということです。全能の神が失われることによって、神が有していた全能の力は金に移し替えられました。したがって、多くの金を持てば持つほど、神の全能の力をそれだけ多く所有できることになります。金ですべての価値が判断される資本主義社会では、金があればあらゆるものが手に入り、したいことが実現できます。つまり、金こそ万能の力なのです。そこでは金をどのような方法や手段で所有したかは、まったく関係がありません。金を持っていることがすなわち、神の力を有していることに等しいことになります。

 いみじくもマックス・ヴェーバーは、文化発展の最後に現われた精神のない専門人、心情のない享楽人たちが、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめたと自惚れていると指摘しました。それは、彼らが金という全能の力を有したからに他なりません。精神や心情がなくても、金という万能の力さえ持っていれば、人間性のかつて達したことのない段階にまで登りつめた、すなわち神の領域に近づいたと錯覚することができるのです。

 金を持っていれば、人々はあらゆるサービスを受け、丁重に接してもらえます。しかしそれは、金を持っている個人が尊重されているわけではありません。あくまで個人が持っている金が尊重されていることを忘れてはならないでしょう。

 

世界に広がる拝金教

 拝金教の利点は、現世利益にあります。他の宗教のほとんどは、苦しい現世を耐え抜くことによって、来世に幸福が訪れるという構図が描かれています。たとえばキリスト教ではいわゆる天国、イスラム教では緑園が想定されていますし、仏教では輪廻転生を果てなく繰り返すことによって、悟りが開かれる途が示されています。儒教では現世での利益を説きますが、為政者が徳のある政治をすることによって社会が正しい方向に導かれるという、個人ではなく集団を救済する教えになっています。

 これに対して、拝金教は現世での幸福を、しかも個人単位で求めることができます。さらに他の宗教のように、必ずしも難行苦行をする必要はありません。遺産によって金を得ることでも、不動産が値上がりをしたことでも、金融商品を転売したことでもその方法は問われません。法律というルールさえ破らなければ(場合によっては法律すれすれのグレーゾーンであっても)、どのような方法でも金さえ得られれば現世の幸福が約束されるのです。

 以上のような単純明快な教義と、個人が全能の力を発揮できる仕組みと、現世で利益を得られる快感によって、拝金教は世界中に広がって行きました。そして、拝金教の教えによって支えられた現代の資本主義は、マルクスの予言を裏切って世界を席巻し続けています。資本主義の本質が人間性の疎外に繋がるのかどうかは、まだ答えが出ていないにもかかわらず。(了)

 

 

文献

1)カール・マルクス(城塚 登 訳):ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説岩波文庫,東京,1974.