資本主義はなぜ世界を席巻しているのか(5)

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 神が社会の表舞台から退場したことによって、資本主義の精神が失われ、それは世界大恐慌を引き起こす重要な要因になりました。では、大恐慌から抜け出すにためは、どのような対応が必要だったのでしょうか。

 

ニューディール政策

 こうした停滞を打ち破り、南北戦争以来の大きな方向転換をアメリカ社会にもたらした人物が、1933年に新しく大統領に就任したフランクリン・ローズヴェルトでした。
 ローズヴェルトは、大統領就任演説のなかで「われわれが恐れるべき唯一つのことは、恐怖それ自体である」と述べ、さらに「わが国は行動を求めている。いまただちに行動することを」と国民に訴えかけました(その真に意味するところは、「神を顧みなくなったことの罰や報いを恐れる必要は何一つない。過去への悔恨を断ち切り、未来に向けて今すぐ行動を起こそう」であったと考えられます)。この演説はアメリカ史上初めてラジオで生放送され、アメリカ国民を鼓舞し、勇気づけました。
 ローズヴェルトは、大統領に就任すると次々とニューディール政策を打ち出しました。大規模な失業者救済計画が開始され、何百人もの労働者が公共事業に投入されて行く一方で、銀行の救済措置、金本位制の停止、生産統制を含む農産物価格の安定策、銀行や証券取引制度の改革、企業活動に対する国家統制や労使関係の規制等さまざまな政策が実行に移されました。さらに、テネシー川流域の水力発電計画では、テネシー川流域開発公社(TVA)という公営企業の設立による、大規模な経済的実験が試みられました。驚くべきことにこれらの立法活動は、ローズヴェルト政権が誕生してからわずか100日余りの間に行われたのです。

 

修正資本主義

 ローズヴェルトの素早い対応によって、アメリカ社会は過去への執着から解き放たれ、未来に向けて動き出しました。ここでは、政策の内容そのものよりも、多くの政策を一気に行ったことこそが、社会の停滞を打破する意味で重要だったのだと考えられます。アメリカ経済はこうして、大恐慌による不況のどん底から次第に立ち直りを見せ始めました。
 ニューディール政策の基本的課題は、もとより資本主義体制の救済にありましたが、ローズヴェルトが経済活動の諸分野に国家権力を介入させた結果、資本主義体制はそのあり方そのものに大きな修正が加えられました。連邦政府の権限が大きく拡大され、政府による強力な介入を伴うようになった自由主義的な経済体制は、修正資本主義と呼ばれました。

 このような大規模な改革は、ローズヴェルトに対する国民の圧倒的な支持によって実現しました。彼は国民から一貫して高い支持率を得るとともに、アメリカ史上ただ一人4期連続して選出された大統領になりました。

 

ニューディール政策の成果

 以前にも増してアメリカ国民に強大な影響力を持つようになった大統領職に、ローズヴェルトが4選されたのはなぜでしょうか。彼がニューディール政策によって、瀕死のアメリカ経済を大恐慌から救ったことが大きな要因であることは間違いないでしょう。
 しかし、一方で、経済が回復基調を示すようになると、アメリカ社会からローズヴェルトへの反発が生じるようになったのも事実です。政財界の保守派は、ニューディール政策憲法を危うくし、独裁をもたらすと非難を始めました。また、最高裁判所は、ニューディール政策の一部が行政権を逸脱するとして、違憲判決を出しました。これらの動きは、大統領の権力が増大することに対する警戒心の現れであったと考えられます。
 さらに注目すべきことは、ニューディール政策が、大恐慌に対して充分な成果をあげることができなかった点にあります。ニューディール政策によって、確かにアメリカ経済は大恐慌からの立ち直りを見せ始めました。しかし、第二次世界大戦が始まった1939年の時点では、決して景気は回復しているとは言えない状況にありました。例えば、大恐慌直前の1929年と比較して、GNPは実質で3%の上昇を示しましたが、一人あたりのGNPは4%下降していました。アメリカ社会にはまだ948万人の失業者が存在し、失業率は17%(農業を除けば25%)に達していました。

 実はアメリカ経済の完全な回復は、戦時体制下で、軍事支出の急激な増加によって達成されたのです。

 

民衆が求めたリーダー像

 それにも拘わらず、ローズヴェルトが再選され続けたのは、民衆が彼を求め続けたからに他なりません。では、民衆が彼に求めたものとは何だったのでしょうか。それは、アメリカ社会における、失われた神の役割であったと考えられます。
 神が社会の表舞台から退場した後のアメリカでは、社会秩序は混乱し、経済は停滞を続け、人々は歩むべき途を見失っていました。人々の不安は増大し、彼らの無意識の中には、神を顧みなくなったことへの悔恨が渦巻いていました。

 しかし、自由で豊かな生活を享受してきたアメリカ国民の多くは、もはや勤勉と節約を説く禁欲的なプロテスタントの姿に戻ることはできませんでした。そこで人々は、現実の社会体制のなかで、神の役割の代わりを果たしてくれる人物を求めました。そして、その人物が、再び自由で豊かな生活を与えてくれることを待ち望みました。

 

神のごとき指導者

 民衆が混乱した社会を正しい方向に導いてくれる神のごとき権力者を求めたからこそ、ニューディール政策が政財界から非難され、最高裁違憲判決が出されようとも、ローズヴェルトは支持を受け続けました。たとえ、ニューディール政策が充分な効果を挙げていなかったとしても、それは最も重要な問題ではありませんでした。民衆が求めたものは、人々の生活を救うために強大な力を振るうことを惜しまず、新たな社会の仕組み(それは、新たな「神の掟」とも言えます)を作り上げる大統領の“姿”でした。その姿は、神を失った人々が抱く底知れぬ不安感を解消させました。神のごとく振る舞う姿は、それだけで人々に安心感を与えました。
 事実、ローズヴェルト大統領は、「合衆国の父」とか「賢明で先見の明のある慈悲深い父」といったイメージで、アメリカ国民から尊敬と愛情を一身に受けました。これこそ、人々が父なる神に求めるイメージに他ならないでしょう。そのような大統領の姿を仰ぎ見ることによって、初めてアメリカ国民は精神の安定を取り戻し、未来に希望を託すことができるようになったのです。

 

大統領の限界

 ただし、その権力がいくら強大になろうとも、ローズヴェルト大統領が完全に神の代替者たり得たわけではありませんでした。民主主義の制度によって、権力の増大には限界が存在するからです。
 民主主義では選挙によって為政者を選任しますが、投票によって支持を表明することは、自分ができないことを、能力のある(と思われる)者に代行してもらおうとする意思の現れと捉えることができます。それは、自らの万能感を為政者に投影する行為でもあります。

 したがって、多くの支持を得た為政者は、それだけ多くの人々から万能感を投影されていることになり、その分だけ強大な力を持って自由に振る舞うことを人々から許されます。ちょうど、神が全能の力を自由な意思で振るうように、為政者にも同様の権利が与えられるのです。万能感が投影されることによって生まれるこの「強大な力を自由に振るう権利」こそが、民主主義における権力の源泉であると言えるでしょう。
 大統領が強大な権力を有するのは、議院内閣制に比べ、多くの国民の万能感が直接投影されているからだと考えられます。しかし、裏を返せば、国民の支持を得られなくなれば、大統領は力を失い、自由に振る舞うことが許されなくなります。そのため、民主主義が機能している限り、大統領の権力にはおのずと限界が生じることになります。どんなに人気の高い為政者といえども、彼を支持しない勢力が必ず存在し、民主主義の制度によってそれが国政に反映されるからです。
 ローズヴェルトは神の役割を求められたために、それまでのどの大統領よりも強大な権力を持つに至りましたが、それでも全能の神のごとき絶対の権力を持つことはできませんでした。この点でローズヴェルトは、民主主義が機能しなくなって独裁者となったヒトラースターリンのような、完全な神の代替者にはなり得なかったのです。

 

神の代替者の喪失

 ローズヴェルト以降、大統領の権威や威光は次第に失われて行きました。

  冷戦時代に起こったヴェトナム戦争での敗北は、アメリカの国家としての威信を低下させました。さらに、ドルと金の交換を停止することを柱に据えたアメリカの経済政策によって1971年に起こったニクソン・ショックや、73~74年と79年の二回にわたる石油高騰がもたらしたオイル・ショックは、先進工業国家における高度経済成長の終焉をもたらしました。

 加えて、ニクソン大統領が任期中に辞任に追い込まれた1974年のウォーターゲート事件は、大統領に対する国民の不信感を増幅させました。こうして、神の代替者の役割を果たせる人物は存在しなくなっていったのです。

 神の代替者を失ったことによって、資本主義の精神はどう変化していったのでしょうか。マックス・ヴェーバーは、次のように指摘しています。

 

 「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。(中略)こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』 》letzte Menschen《 にとっては、次の言葉が真理となるのではないだろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1)366頁)

 

 ヴェーバーが指摘するように、20世紀のアメリカでは、営利活動からは宗教的・倫理的な側面が取り去られていました。社会に残されたものは、スポーツの性格さえおびた純粋な競争の感情であり、こうした文化発展の最後に現れたのは、「精神のない専門人」や「心情のない享楽人」でした。それにも拘わらず彼らは、「人間性のかつてない段階にまで登りつめたと自惚れている」とヴェーバーは言うのです。

 では、精神のない専門人や心情のない享楽人が、なぜ人間性のかつてない段階にまで登りつめたなどと自惚れることができるのでしょうか。(続く)

 

 

 

文献

1)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,東京,1989.