資本主義はなぜ世界を席巻しているのか(2)

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 前回のブログでは、資本主義の成立に不可欠な「資本主義の精神」について、ルターの「天職概念」とカルヴァンの「予定説」に従って述べてきました。

 カルヴァン派信徒においては、「神の栄光を増すため」に与えられた職業を全うすることが善行とされました。したがって、彼らは自らが救われていることを確証するために、善行を重ねるかのごとく働き続けました。しかし、それだけではありません。彼らは、徹底的な禁欲をも行ったのです。

 

 懺悔しても救われない

 予定説によって唯一、全能の神が復活したキリスト教からは、精神性の展開が推し進められ、資本主義の精神はさらに徹底されることになりました。マックス・ヴェーバーに従って、さらにこの経緯を見て行くことにしましょう。
 ヴェーバーは、カトリックの教義には呪術的要素(いわゆるまじないとか魔術の類)が存在すると指摘します。

 

 「世界の『呪術からの解放』、すなわち救いの手段としての呪術を排除することは、カトリックの敬虔感情の場合には、ピュウリタニズムの宗教意識(それ以前ではユダヤ教のみ)のばあいのように徹底的に行われなかった。カトリック信徒は教会の聖礼典(秘蹟)のもたらす恩恵によって、自分にはどうにもならぬものを補うことができた。司祭が呪術者として、ミサにおける化体(かたい)の奇蹟をとり行い、天国の鍵をその掌中に握っていたのだ。信徒は悔い改めと懺悔によって司祭に助けを求め、彼から贖罪と恩恵の希望と赦免の確信をあたえられ、これによって、カルヴァン派信徒にみるような恐るべき内面的緊張から免れることができた」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1)196頁)

 

 カトリックの信徒たちは、原罪だけでなく、自らが現世で犯した罪についても、悔い改め懺悔することによって、また秘蹟サクラメント)のもたらす恩恵によって償うことができました。そこでは司祭が、呪術者として「化体の奇蹟」という呪術を行っていました。
 しかし、プロテスタントの神は、あらかじめすべてを決定する存在になりました。人間は、神の栄光を増すための僕となり、救いの確信を得るためにひたすら善行を積む生活を送らねばならなくなりました。神からの救済を得られないことを恐れて、絶えず緊張を強いられる信徒の姿がそこにはありました。呪術によって救いを得るという道は、もはや残されていませんでした。

 

生活の合理化

 そのことが、現世の生活を合理化させることに繋がったとヴェーバーは指摘します。

 

 「『聖徒』たちの生活はひたすら救いの至福という超越的な目標に向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上で神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」197頁)

 

 プロテスタントの信徒たちの生活は、共同の目的としては「神の栄光を増すため」に、そして個々人の目的としては「自らの救済の確信を得るため」に専ら費やされることになりました。ともすれば苦痛な労働に耐えるための、彼らの心の拠り所は何だったのでしょうか。

 それは、救済された後に、神の国で永遠の生命を得ることでした。彼らの欲望はその一点に集約され、共同化されました。皆が同じ欲望を抱き、それだけを常に望むようになりました。こうして「救いの至福」を望むこと以外の欲望は断念され、それに伴って、現実の生活はひとつの目標に向かって徹底的に合理化されることになったのです。

 

徹底した禁欲

 この事情をヴェーバーは、カルヴァン派のピュウリタンを例にあげて詳細に述べています。その一部を、以下に記してみましょう。

 

 「明白に啓示された神の意志によれば、神の栄光を増すために役立つのは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけだ。したがって時間の浪費が、なかでも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。人生の時間は、自分の召命を「確実にする」ためには、限りなく短くかつ貴重だ。時間の損失は、交際や「無益なおしゃべり」や贅沢によるものだけではなく、健康に必要な -六時間かせいぜい八時間以上の- 睡眠によるものであっても、道徳上絶対に排斥しなければならない」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」293頁)

 

 神の栄光を増すためにピュウリタンは、労働という行為を示し続けなければなりませんでした。また、自分が救済されているという確信を確実なものとするためには、常に労働に励まなければなりませんでした。そのためには、時間の浪費が最も重い罪と考えられました。怠惰な生活や享楽に溺れることはもちろんのこと、交際やお喋り、必要以上の睡眠に至るまでが時間の損失と考えられました。
 この考え方は、時には祈りや黙想にまで向けられました。

 

 「無為の黙想も、少なくとも天職である職業労働を犠牲にしておこなわれるばあいには無価値であり、ときには端的にも排斥すべきものとなる」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」293頁)

 

 そして、当然のごとく、享楽を伴うものは最も嫌悪すべき対象とされました。

 

 「禁欲が全力をあげて反対したのは、とりわけ、現世とそれが与える楽しみのこだわりのない享楽ということ、ただ一つだった。(中略)遊技はただ合理的な目的、つまり、肉体の活動力が必要とする休養に、役立つものでなければならなかった。(中略)「貴族的な」遊技であれ、庶民が踊りや酒場に行くことであれ、職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽は、ずばり合理的禁欲の敵とされたのだった」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」328-329頁)

 

 このように、ピュウリタニズムの倫理においては、現世において楽しみや享楽を得ることを徹底的に排斥しました。遊技は、肉体に休息を与え、次の労働のための準備となる場合に限って認められました。衝動的な快楽は、職業労働や信仰を忘れさせるという理由で厳禁されました。生活のすべては、信仰による職業労働を行うという目的のために整理され、合理化されることになったのです。

 

性的禁欲

 そして、こうした禁欲は性欲に対して最も顕著に認められました。

 

 「ピュウリタニズムの性的禁欲は、修道士のそれと程度の差はあれ、根本原理に異なるところはなく、しかも結婚生活にも及ぼされていたために、その影響はいっそう広汎なものとなった。というのは、夫婦間においてさえ、性的交渉が許されるのは『生めよ殖えよ』の誡命にしたがい、神の栄光を増し加える手段として聖意に適(かな)うばあいだけとされたからだ」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」300-301頁)

 

 カトリック修道院で修行生活を営む修道士たちは、貞潔、清貧、従順という三つの誓願を立てることを常としていました。また、カトリック教会の神父は、伝統的に終生独身を守っています。そうした修道院における性的禁欲が、世俗内の一般階層にまで拡がることになりました。
 性的交渉は、神の栄光を増すために子孫繁栄の手段となる場合にのみに許されました。「キリスト教の婚姻の最高形態は処女性を失わないもので、それに次ぐのが性的交渉がもっぱら子供の出産のために役立てられるもの、順々にそのようにして、単に愛欲的な、あるいは単に外的な理由によって結ばれ、倫理的にみれば蓄妾(ちくしょう)にひとしいものにまで行きつくことになる」(同上302頁)とも述べられているように、現世の快楽を敵視するピュウリタニズムにとって、性的快感は最も排除せねばならないものの一つでした。

 

富の蓄積

 こうしてピュウリタンは、禁欲を徹底して行い、信仰の証しである現世での職業労働に邁進することを目指しました。彼らの行動様式からは、趣味や娯楽を楽しむこと、祝祭や非日常的な出来事に没入することといった、享楽を得るための行動様式が排除されて行きました。

 それは、財を消費する機会を極端に減少させることに繋がりました。働くだけ働き、一方では消費しない生活様式を持つに至ったピュウリタンたちには、必然的に富の増加がもたらされることとなりました。
 この富の蓄積に対して、彼らはどのような倫理を持っていたのでしょうか。

 

 「富が危険視されるのは、ただ怠惰な休息や罪の快楽への誘惑であるばあいだけだし、富の追求が危険視されるのも、他日煩いなく安逸に暮らすためにおこなわれるばあいだけで、むしろ、(天職である)職業義務の遂行として道徳上許されているだけでなく、まさに命令されているのだ。(中略)貧しいことを願うのは、しばしば論じられているように、病気になることを願うのと同じで、行為主義として排斥すべきことだし、神の栄光を害うものだとされた」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」310-311頁)

 

 富の蓄積が問題とされるのは、それが快楽のために使われたり、充分な蓄財のために働かなくなる場合に限られました。つまり、富の蓄積は、労働を妨げない限りまったく問題にされることはありませんでした。それどころか、職業労働の結果生じた富は神の栄光を増すものとして推奨され、富を蓄えることは、神に命令されるものとすら捉えられたのです。
 ここで重要なのは、富の蓄積は営利を追求した結果ではないという点です。営利を追求すること自体は、自らの欲望を満足させることとして端的に排斥されるべき行為でした。富の蓄積をもたらす労働に対するこの二つの態度、すなわち、信仰の証しである労働をまっとうすることと、営利の追求のために働くことは、結果において大きな違いを生むことになります。
 欲望を満足させるために営利の追求を行う場合は、自らの欲望が満たされればそれ以上の追求は行われません。また、自らの欲望を満たすことは、富の蓄積ばかりでなく消費に向けられる場合もあるでしょう。その結果として、富の蓄積には自ずと限界が生じます。
 一方、信仰の証しとして労働が行われる場合は、富の蓄積には歯止めがなくなります。彼らの目的は富を増やすことにはなく、働くことによって神の栄光を増し、働き続けることによって神に選ばれていることを確認することにありました。そして、それは現世の欲望を満たすためではなく、神の国で至福の時を過ごすためでした。

 したがって、現世において彼らは、ひたすら働き続けなければなりませんでした。その結果、消費されることもない富は、増え続けるしかなかったのです。

 

資本主義を生んだエートス

 このような労働に対する考え方と禁欲的な生活は、プロテスタントの社会に特徴的な行動様式として根づいていったとヴェーバーは言います。

 

 「独自の市民的な職業のエートスが生まれるにいたったのだ。市民的企業家は形式的な正しさの制限をまもり、道徳生活に欠点もなく、財産の使用にあたって他人に迷惑をかけることさえしなければ、神の恩恵を十分にうけ、見ゆべき形で祝福をあたえられているという意識をもちながら、営利に従事することができたし、またそうすべきなのだった」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」356頁)

 

 ここで述べられているエートスという言葉は、訳者の大塚によって、「宗教的倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理的綱領とか倫理的徳目とかいう倫理規範ではなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでもいうべきもの」(同上388頁)と説明されています。
 つまり、個人が意識したり努力したりすることなく、何も疑われることなしに自然に受け入れられている社会的な倫理・行動様式をエートスと呼びます。

 プロテスタントの教義から派生した職業倫理は、「市民的な職業のエートス」として当時の社会全体に浸透して行きました。こうした新興市民のエートスが、資本主義の精神となったのです。

 さて、ここまで資本主義が成立するための「禁欲」の役割について述べてきました。しかし、これほどまでに禁欲を強いられるのなら、資本主義は世界に広まらなかったのではないでしょうか。

 また、人々の欲望を刺激し続ける現在の資本主義の姿とは、あまりにかけ離れていると思いませんか。そうなのです。これまでに述べてきた初期の資本主義と現在の資本主義では、その姿は大きく変わっています。

 では、現在の資本主義がなぜ今の姿になったのかは、次回以降のブログで検討して行くことにしましょう。(続く)

 

 

文献

1)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,東京,1989.