共産主義社会にはなぜ独裁者が生まれるのか(1)

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 2017年は北朝鮮のミサイルと核開発が世界を騒がせました。これを主導したのが、北朝鮮の独裁者である金正恩です。ところで、忘れられがちですが北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国の名が示す通り、人民のための共和国、すなわち共産主義を掲げる国家です。共産主義とは人民の平等を目指す社会思想であり、独裁者が支配する国家とは正反対の思想のはずです。

 ところが北朝鮮に限らず、共産主義を掲げる国家では、ソ連スターリン、中国の毛沢東ユーゴスラビアのチトー、ルーマニアチャウシェスクキューバカストロカンボジアポル・ポト北朝鮮金正日などの独裁者が誕生しています。なぜこのような矛盾した出来事が起こるのでしょうか。

 

平等主義という思想
 平等主義の理念は、18世紀後半に起こったフランス革命において、「人は生まれながらにして自由にしてかつ平等な権利を有する」と謳った人権宣言に遡ることができます。フランス革命に思想的影響を与えたのは啓蒙思想でしたが、啓蒙思想キリスト教から派生したことを考えると、平等の概念はさらにキリスト教の教義にまで遡ることができます。その教義とは、「神のもとの平等」です。

 キリスト教の神を戴く者は、神という絶対者の前ではすべて平等です。これが、キリスト教における平等の本来の意味するところです。神のもとの平等という概念は、「教皇(カリフ)も乞食もまったく同等だ」と言われるイスラム社会からの影響を受け、さらに宗教改革後に神の全能性が究極の域に高められるにつれて、より完成されたものとなりました。
 18世紀に啓蒙思想が普及し、無神論によって絶対の神が消失すると、「神のもとの平等」から神が取り除かれました。その結果として、人は生まれながらにして平等の権利を有すると謳った、啓蒙思想における平等主義の理念が導かれたのです。
 このように、社会主義思想を平等主義という観点からみると、それは決して目新しい思想ではありません。しかし、19世紀に入ると、社会主義思想が注目される社会的な状況が生じることになりました。

 

社会主義思想の発展
 欧米各国で産業革命が興ると、資本家階級の優位が確立した一方で、無産の賃金労働者の数が増加し、その生活は悪化の一途をたどりました。そこから様々な社会問題や労働問題が、社会的規模で発生しました。

 当時は土地を追われた農民、転落した手工業者、婦人、子どもなどの労働力が過剰な状態にありました。さらに、経済恐慌が発生するたびに失業する労働者が増加し、労働条件はますます悪化しました。資本家は、機械の発達によって単純化された仕事に婦人や子どもを就け、低賃金で長時間の労働を強いることも珍しくありませんでした。都市では労働者がスラム街を形成し、その生活は劣悪を極めました。
 このような悲惨な現状を改革し、理想の社会を実現しようとして、19世紀を通じて社会主義思想が発展したのです。
 社会主義思想の発展はまず、19世紀の前半において、フランスのサン=シモン、フーリエ、イギリスのロバート=オーウェンといった思想家たちによってもたらされました。彼らは、生産手段の私有こそが社会悪の根源であると考えました。そして、資本家たちが利潤追求を目的として行っている生産形態に代えて、生産手段を社会の共有にするべきだと主張しました。しかし、彼らは理想主義的な人道主義者であり、社会を変革する具体的な方策を持ち合わせていなかったと言えるでしょう。

 

マルクス科学的社会主義

 そこで登場したのが、ユダヤ系ドイツ人、カール・マルクスでした。マルクスは、彼に先立つ社会主義者たちの考え方を「空想的社会主義」と呼び、道徳的な観点から社会主義を主張しても意味がないと批判しました。そして、エンゲルスと共に理論的に体系づけられた「科学的社会主義」思想を発展させ、歴史の法則に従って社会主義革命が起こると主張したのです。
 マルクスは、ヘーゲル哲学の弁証法フォイエルバッハ唯物論哲学を融合させ、唯物論弁証法で歴史の発展を説明する唯物史観を打ち立てました。それによれば、政治や社会の仕組みといった上部構造はそれ自体で変化するのではなく、経済構造や生産手段といった下部構造によって規定されます。
 さらに、社会が発展する原動力は、生産力と生産関係の矛盾から生じる階級闘争にあるとされました。マルクスは、歴史はすでに産業社会が新しい労働者階級(彼はこれを産業プロレタリアートと名づけました)を生み出しており、歴史的必然に従って、労働者階級によって革命が達成されると考えました。彼は、かつて封建主義社会が資本主義社会に一掃されたように、この革命によって資本主義社会が一掃される時が訪れると予言しました。そして、社会主義社会では、生産手段の社会的共有化によって平等主義の理念が達成され、新しい社会形態が実現されると主張したのです。
 1848年に、マルクスエンゲルスと共に共産党宣言を発表し、社会主義社会実現のために世界の労働者が団結して闘争すべきだと訴えました。この主張は労働者の間に瞬く間に広まり、1864年にはロンドンで第一インターナショナル(国際労働者協会)が結成されました。以降、社会主義運動は、国際的な規模で展開されることになります。
 マルクスの予言した社会主義革命は、1917年にロシアの10月革命で達成されました。レーニンを指導者として世界初の社会主義革命が起こり、ロシアにはソヴィエト政権が樹立されました。

 

スターリンという独裁者の誕生
 社会主義革命を達成した当時のロシアは、マルクスが説いたような歴史的法則に則った社会状態にはありませんでした。唯物史観によれば、社会主義革命は、資本主義の最も進んだイギリスのような国で起こるはずでした。そして、資本主義の遺産をそのまま引き継ぐはずでした。
 しかし、ロシアはヨーロッパで最も遅れて産業革命が興った国であり、革命当時においても、資本主義はそれほど浸透した状態にはありませんでした。そのためソ連では、マルクスが予言したような社会主義の発展を遂げませんでした。
 1922年に周辺諸国を合併して、ソヴィエト社会主義共和国連邦が樹立されます。1924年に革命の指導者レーニンが死去すると、スターリントロツキーが激しい後継争いを演じました。トロツキーを国外に追放したスターリンは、1927年から政権を握り、翌年から第一次5ヶ年計画と銘打った経済政策を実施しました。これによって工業生産は2倍に増加し、ソ連はそれまでの農業国から工業国へ転換しました。5ヶ年計画はその後も続けられ、世界恐慌によって深刻な経済危機に直面していた資本主義各国を尻目に、ソ連経済はめざましい発展を遂げました。
 また、農業経営でもコルホーズ(集団農場)、ソホーズ(国営農場)が普及し、スターリンの説く一国社会主義の建設が、工業と農業の両面で押し進められました。さらに軍事力を強化したソ連は、大国への道を歩み始めました。
 1936年には、いわゆるスターリン憲法が発布されました。普通・平等・直接・秘密選挙の原則が取り入れられたスターリン憲法は、世界で最も民主的な憲法と自賛されました。この憲法によって、ソ連は労働者と農民の社会主義国家であると規定されました。スターリンのもとで進められた社会主義国家の建設は、こうして理想的な社会を創り上げるかのように見えたのです。

 

大粛清につぐ大粛清
 しかし、スターリンによる政策の華々しい成果の裏側には、恐ろしい現実が隠されていました。後になって、ソ連の発展は、おびただしい人々の犠牲のうえに成り立っていたことが明らかになりました。
 スターリン体制が確立すると、ナショナリズム高揚のために厳しい民族政策が採られました。ソ連成立時に合併された周辺国の民族主義者が次々に逮捕され、ソ連は「諸民族の牢獄」と化しました。

 コルホーズやソホーズによる農業の集団化は、反対する農民に徹底した弾圧を加えて進められました。過酷な穀物調達を強行したり、遊牧民を強制的に定住させたことに加え、急速な集団化の混乱で生産が大幅に低下して大規模な飢饉が発生し、何百万人もの農民が餓死したと言われています。この農業政策の失敗と社会の混乱を覆い隠すために、スターリンは敵対者を処分し、大粛正を断行したのです。
 大粛正を行うために利用されたのが、皮肉にも世界で最も民主的と自賛されたスターリン憲法であした。民主的な憲法を重要視すればするほど、憲法を制定したスターリンに反対する勢力を排除する必要性が強調され、彼らを「人民の敵」と規定して粛正することが正当化されました。
 こうして、1937年から39年にかけて、共産党を一掃するほどの徹底的な粛正が進められました。治安警察が直接関与した大粛正では、密告が奨励され、相互の監視体制が強化されました。嫌疑をかけられた者は、その親族、同僚、友人までもが人民の敵と見なされました。彼らは銃殺されるか、強制収容所に送られました。
 粛正はその後も行われ、スターリンが死去するまで続けられました。粛正の痕跡が当時の指導部によって巧みに覆い隠されたためその正確な数は分かりませんが、『収容所群島』の作者ソルジェニーツィンによれば、スターリン体制下で粛正された者の数は実に1500万人(!)にも上るといいます(『全体主義と政治暴力』1)188頁)。こうした恐怖政治が行われた結果、スターリンは絶大な権力を手中に収め、独裁者としてソ連に君臨し続けたのです。
 スターリンの個人独裁が確立したソ連社会からは、平等主義の理念は跡形もなく消え去って行きました。社会にはスターリン体制のもとで、共産党員、政府、軍などのエリートから構成される特権的支配階層が形成されました。彼らは、一般民衆とはかけ離れた権力と富を持ち、贅沢で優雅な生活を送るようになりました。
 一部の者が富と権力を独占し、その他の大勢の者を抑圧することのない社会こそが、社会主義者にとって理想の社会だったはずです。しかし、社会主義国ソ連はいつの間にか、指導者が人民を抑圧し、一部の者が富と権力を独占する社会に変貌してしまいました。資本主義社会の矛盾を解決するために考え出された社会主義は、まったく同じ矛盾を生み出す結果となったのです。
 唯物史観に裏打ちされたマルクスの予言は、なぜこのような結末を迎えてしまったのでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)デーヴィッド・クレイ・ラージ(大西 哲 訳,赤間 剛 解説):全体主義と政治暴力 ヒトラースターリンの「血の粛清」.三交社,東京,1993.