キリスト教の神はなぜ殺害されたのか(3)

f:id:akihiko-shibata:20180129230407j:plain

 

 前回のブログでは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をもとに、宗教改革によって、神の全能性が究極に高められた経緯を検討してきました。今回のブログでは、こうして誕生した全能の神が、なぜ殺害されなければならなかったのかを検討して行きたいと思います。

 

啓蒙思想の台頭

 16世紀に始まる宗教改革で示された、全能性をさらに高めた神と、原罪を背負い自らの力では贖罪できない無能な人間という構図は、17世紀を経て次第に変化をみせるようになりました。17世紀には、全能の神の存在と神の意思を探求する試みが続けられましたが、そうした試みを通して、神の性質が人間の側に取り込まれて行きました。その現れが、17世紀のイギリスに始まり、18世紀のフランスで最も華々しく展開し、さらにドイツにも普及した啓蒙主義です。
 啓蒙主義の特徴は、人間の理性の尊重にあります。理性の光に照らして、いっさいの制度・慣習・伝統の中の非合理的なものを批判し、排除します。人間の理性に絶対的価値を与え、人間の理性への信頼から未来の進歩に対して楽観的見解をとり、人々の理性を目覚めさせる教育活動を強調することが啓蒙主義の思想でした。
 ところで、そもそも理性とは、人間の経験を超えた神などの最高の実在や、世界を支配する根本原理を認識する能力を指していました。神の存在や神の意思を理解する能力が、元来は理性と呼ばれていたのです。

 しかし、啓蒙主義と宗教は次第に対立して行くことになります。それは、イギリスで興った理神論に始まります。理神論では、創造主としての神は認めるものの、奇蹟や啓示を否定し、宗教を理性によって基礎づけようとする立場を採ります。ここから、理性を至上として信仰をその下位に置く考え方が生まれ、やがてカトリック教会に対して厳しい批判が加えられるようになります。
 啓蒙主義思想が円熟すると、理性は、人々に生きる指針を与える拠りどころだと見なされるようになりました。その結果、神の担ってきた役割がさらに蚕食され、人間の理性がいっそう尊重されることになりました。そして、神に拠らない生き方、個人の理性に拠った生き方が推奨されるようになったのです。

 

啓蒙思想と自然科学の発達

 こうした啓蒙主義の台頭は、なぜ起こったのでしょうか。一般的には、自然科学の発達に伴って神や宗教の非合理性が指摘されるようになり、それが人間の合理的な理性によって取って代わられることになったと理解されています。
 確かに自然科学の発達は、地上の自然現象だけでなく宇宙の法則までも射程に入れ、世界の成り立ちについて合理的に理解することを可能にしました。自然科学の発達は、世界に対する理解を深めただけでなく、人間の能力の可能性を再認識させるとともに、人間の自尊心を大いに高めることにも繋がりました。その結果、人間は神に導かれて生きる状態から脱し、自ら独立して歩む段階に達したと考える者が出てきたとしても不思議ではないでしょう。
 しかし、この時代の理性の輝かしい登場を、単に自然科学の発達に帰するのは一面的な捉え方に過ぎません。なぜなら、啓蒙思想の発展は、17世紀の「科学革命」とほぼ同時期に始まっているからです。

 17世紀から18世紀の前半にかけて、ヨーロッパ諸国では自然科学の著しい発展が遂げられました。この時代は、フランシス=ベーコン、ケプラーデカルト、ボイル、パスカルホイヘンス、リンネ、ニュートンなど蒼々たる科学者を輩出し、現在の自然科学の基礎概念が形づくられました。バターフィールドは、これを「科学革命」《Scientific Revolution》と呼び、古代ギリシャ的な自然科学の諸体系が、近代科学のそれに移行した革命であると捉えています。
 ところで、ニュートンに代表される17世紀の科学は、神への信仰を背景に成立したものでした。そして科学革命は、「神の御業、神の計画とは何か」を知るという目的において発展しました(村上陽一郎(『近代科学と聖俗革命』1)26頁))。つまり、宗教改革によって究極の全能性を備えた神の意思を推し量ろうとして、17世紀の科学は発展したのです。

 一方、啓蒙思想の誕生は、17世紀におけるデカルトの理性論から、さらにはルネサンス期におけるラブレーモンテーニュなどのフランス人文主義者にまで遡ることができます。自然科学の発達は、啓蒙思想の発展には寄与したでしょうが、啓蒙思想を生む直接の原因になったとは考えられません。啓蒙思想は、自然科学の発展の結果生まれたのではなく、自然科学とともに発展したのです。

 

神を排除する必然性

 そして、もう一つの重要な点は、啓蒙主義によって顧みられなくなった神とは、宗教改革後に生まれ変わった全能の神だったことにあります。当時の人々は、この神の救済を得られないこと、さらには神によって永遠の死をもたらされることを極端に畏れていました。そのため全能の神の教えに背き、神を人間の理性の下に置くような考えを、たとえ科学者や哲学者であっても簡単に採用できたとはとても考えられません。そこには、神を排除しなければならない何らかの必然性が存在していたはずです。
 したがって、啓蒙主義によって神を顧みない思想をこの時代の人々が持ち始めた理由は、他にも求められなければなりません。

 精神分析によれば、神を顧みない思想は神の殺害によってもたらされたのであり、神の殺害は、兄弟たちが原父を殺害した過程の再現であったと考えられます。
 前回のブログで、宗教改革後のキリスト教は、多神教的宗教から厳格な一神教へと変貌を遂げたことを述べました。しかも、予定説によってあらかじめすべてを決定するという、史上かつてない全能の力を有した神が誕生しました。この全能の神こそ、人類の原始社会において兄弟たちを追放し、母親や姉妹たちを独占していた原父が長い時を経て回帰してきた存在です(フロイトは、ユダヤ教においてこの過程を解明しましたが、宗教改革後のキリスト教においても同様の指摘が可能です)。
 したがって、一神教の神に対する人間の感情は、原父に対する追放された兄弟たちの感情と同じアンビヴァレントなものになりました。すなわち、一方では愛情と尊敬と畏怖の念が、他方では憎悪と敵愾心が神に対して向けられます。

 

憎悪と敵愾心を募らせない方策

 そのために一神教には、神に対して憎悪と敵愾心が向きすぎないような教義が組み込まれていました。

 ユダヤ教では選民思想にみられるように、ユダヤ民族は集団救済が約束されていました。苦難の歴史を歩まねばならなかったユダヤ民族は、神を信じ、神の教えを守ることによって、神に選ばれた民として栄えることを約束されました。この契約があるからこそユダヤ民族は苦難を耐え忍ぶことができたのであり、民族の救済が約束されたことによって、神に対する憎悪と敵愾心を募らせることがなかったのです。
 一方、イスラム教では、全能の神であるアッラーは、慈悲ふかく慈愛あまねき神でした。『コーラン2)の各章は、「慈悲ふかく慈愛あまねアッラーの御名において・・・」という文言で始まっており、その内容においても、神の慈悲や慈愛が散りばめられています。キリスト教では原罪を犯したことになっているアダムとイブに対しても、いったんは楽園を追放され地上に落とされますが、その後に神に罪を赦されることになったと記されています(2章35節)。
 また、アッラーの神は現世の運命をあらかじめすべて決定しますが、来世において救済されるかは人間の行い如何によっています。そこには人間の努力を認める、慈悲深い神の態度が認められます。
 さらに、『コーラン』には生活の細部にまで及ぶ戒律が記されていますが、それを一度でも破れば緑園(キリスト教でいういわゆる天国)に行けないといった厳格さはありません。たとえば、アッラーの禁を破ったものは必ず罪の報いを受けるのですが、「改悛のまことを示し、信仰に入り、善行に精出す者だけはのぞく。こういう人々についてはアッラーが、犯した悪事をそっくり善行に替えてくださる」(25章70節)のです。こうした慈悲深い、寛容な神の姿は、神に対する憎悪と敵愾心を緩衝させる役割を果たしています。

 キリスト教においても、当初は他の一神教と同様に、神に対するアンビヴァレントな感情をコントロールする術を持っていました。聖母マリアの持つ寛容と慈悲の精神は、厳格な神に対する感情を緩和する役割を担っていました。また、教皇を頂点とした教会制度は、原罪だけでなく現世で犯した罪についても、悔い改め懺悔することによって、または秘蹟サクラメント)のもたらす恩恵によって償うことを可能にしていました。これらの要素は、神に対する憎悪や敵愾心を必要以上に高めない役割を果たしていました。

 

プロテスタントの神に向けられる憎悪

 宗教改革後のキリスト教は、特にプロテスタントの予定説においては、こうした緩衝剤的要素を排除してしまいました。神は人間の努力をいっさい認めず、一方的にすべてを決定してしまう全能性を有することになったのです。
 人々は当初、唯一神として生まれ変わった全能の神を、愛情と尊敬と畏怖の念をもって迎えたでしょう。そうした感情に導かれて、人々は神の存在と神の意思を懸命に探り、そして神と一体化しようと試みました。

 しかし、時がたつにつれて、その一方的な全能性ゆえに、人々は神を憎み神への敵愾心を募らせるようになりました。原父に対して抱いていたもう一方の感情が、頭をもたげ始めました。
 それは、どれだけ信仰しても、または善行を重ねたとしても、神は救済を約束してくれるとは限らないからです。生まれ変わった神は、永遠の死をもたらすかも知れません。しかも、その不安を和らげてくれる聖母マリアや、罪を償う秘蹟は存在せず、懺悔をして許しを請うことも叶わなくなってしまったのです。

 ところで、神に対する憎悪や敵愾心を語る際に、キリスト教では以下のような補足が必要になるでしょう。
 キリスト教は、パウロが異民族に布教したことに始まります。異民族にとっては、キリストも父なる神も、共に継父に他ならなりません。特に父なる神は、エジプトで生まれ、ユダヤ民族で育まれた、二重の意味での継父でした。

 全能の力を有する継父に対して、人々が敵視し憎む感情を抱くのは当然の帰結であったでしょう。ローマ帝国キリスト教が迫害を受けたのは、こうした理由に拠っていると思われます。それでもローマ帝国の人々は、帝国を維持するために、最終的には自らの意志でキリスト教を選び取りました。
 しかし、その後にキリスト教が広められたゲルマン人ケルト人は、元来土着の多神教を奉じていました。彼らが、キリスト教という継父の神を戴くには、相当の抵抗が生じたでしょう。この抵抗を軽減させるために、キリストの愛の教えや、慈愛と寛容と聖なる母性を持つ聖母マリアの存在が不可欠でした。

 

神の殺害

 継父の神を戴くことになったヨーロッパの人々は、神に対する敵愾心を抱き続けることになりました。彼らには、キリスト教文化に対する敵意が燻り続けました。その神がさらなる全能、絶対の姿で復活したとき、人々の憎悪や敵愾心は、容易に表面化したと考えられます。加えて、多神教的要素を排除し、神に対する不満を緩和させる機能を失ったキリスト教では、憎悪や敵愾心が歯止めなく増幅されました。
 ここから、原父を排除するために同盟を組んだ兄弟たちの戦いが再現されました。兄弟たちは、一方で尊敬と畏怖の念を持って原父の掟を自身の中に取り入れながら、他方では憎悪と敵愾心を持って原父を殺害したのです。ここに、原始社会の原父が再現されたところの唯一神を戴く宗教、すなわちユダヤ教キリスト教イスラム教と続く一神教の系譜において、初めて原父の殺害が繰り返されるという事件が起こったのでした。(続く)

 

 

文献

1)村上陽一郎:近代科学と聖俗革命〈新版〉.新曜社,東京,2002.

2)コーラン(上)(中)(下)(井筒俊彦 訳).岩波文庫,東京,1957-8.