キリスト教の神はなぜ殺害されたのか(2)

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 前回のブログでは、ヨーロッパ社会がイスラム社会から圧倒されて劣等感を抱き、自らの自尊心を回復する目的で宗教改革を行った経緯を述べました。今回のブログでは、イスラムの神を超えるために、キリスト教の神に何が起こったのかを検討してみたいと思います。

 

資本主義の精神

 宗教改革を推し進めたプロテスタントの国家からは、社会や経済の変革が起こり、科学の発達が促されました。この変革の背景には、一神教として生まれ変わったキリスト教の影響を認めることができます。
 残念ながら、宗教改革以後のキリスト教フロイトは言及していません。そこで、宗教改革後のキリスト教を検討するために、ここでは宗教社会学的見地からプロテスタンティズムと資本主義の関連を指摘した、マックス・ヴェーバーの考察を取り上げたいと思います。
 ヴェーバーは、その著書である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1)において、近代資本主義が成立する過程で、プロテスタンティズムの倫理が果たした役割を以下のように説明しています。

 資本主義の精神について、ヴェーバーは次のように述べています。

 

 「少なくとも勤労時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃銀がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的- 》Beruf《「天職」-であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。また、高賃銀や低賃銀という操作で直接作り出すことができるものでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』67頁)

 

 労働に対するこのような精神が存在しない社会では、資本主義は成立しません。なぜなら、労働が単に生活を維持するためだけに行われるのであれば、必要な賃金だけを得られればいいのであって、それ以上の労働を必要としないからです。資本主義の精神が存在しない社会では、賃金が増えれば人々はその分だけ働かなくなり、労働以外に時間を振り分けることになります。これは、資本主義の精神が形成される前では、実は当たり前の行動様式でした。「宵越しの銭は持たぬ」という江戸っ子の気質では、資本の蓄積が生まれることは考えられないでしょう。

 資本主義の精神とは、過剰な労働が社会的規模で行われるための精神であると言い換えることもできます。そこでは労働は人生における、ある目的のために行われる手段ではなく、労働自体が生きる目的になるという逆転が起こっています。つまり、労働自体が生きがいになり、労働こそが人生そのものになっています。過剰労働や過労死の問題は、ここに端を発していると言えるでしょう。

 このような心情は、人間が生まれながらに持っているものではなく、長年の教育によってもたらされるのだとヴェーバーは指摘しているのです。

 

資本主義の精神と予定説

 では、資本主義の精神はどのようにして生まれたのでしょうか。ヴェーバーは、それがルターの「天職概念」と、カルヴァンが導いた「禁欲的生活態度」によって形成されたと指摘しています。ここでは、カルヴァンについて紹介していきましょう。

 カルヴァンは、聖書にもとづかないすべての教義や儀式を排除し、教皇を中心とした教会制度を全面的に否定しました。そして、救いの決定権は教皇にはなく、神のみが定めるところであり(予定説)、信者は聖書にしたがって勤勉で道徳的な生活を守るべきだと説きました。この職業を重視し、勤倹による富を肯定する倫理は、ネーデルランド、イギリス、南フランスなどの商工業の盛んな地域の新興市民層に普及していきました。
 カルヴァンの「予定説」こそ、資本主義の精神が育まれるための最も重要な教義となりました。そして、それは、キリスト教を厳格な一神教へと回帰させた教義でもあったのです。

 

予定説とは

 では、予定説とはどのような教義なのでしょうか。
 ヴェーバーは権威のある典拠として、1647年の『ウェストミンスター信仰告白』を引用して説明しています。予定説はそもそも、カルヴァンが著した『キリスト教綱要』(1543年)に展開されたのですが、さらにそれが中心的な位置を占めるに至ったのは、彼の死後に起こった大規模な文化闘争の決着をつけるために開かれた、ウェストミンスター宗教会議に拠っているからです。

 そこで、以下に予定説の教義を示しながら、それがいかにして資本主義の精神に繋がっていったのかをヴェーバーに従って説明します。それと同時に、キリスト教が厳格な一神教に変貌していく様子も概観して行くことにしましょう。

 
 ウェストミンスター信仰告白」第三章(神の永遠の決断について)第三項
 「神はその栄光を顕わさんとして、みずからの決断によりある人々・・・・を永遠の生命に予定し(predestinated)、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた(foreordained)」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』146頁)

 

 神は自らの決断によって、人々の行く末をあらかじめ決定していました。しかも、決定される内容とは、永遠の生命と永遠の死滅です。仏教の輪廻転生思想のように、何度もやり直しがきく決定ではありません。一度、永遠の死滅が決定されたものは、二度と救われることはないのです。
 では、永遠の死滅に至らないためには、人々はどのように振る舞えばよいのでしょうか。ここが、他の一神教にもみられない予定説の特徴であり、全能の神の全能たる所以を際立たせているところであると言えるでしょう。

 

 ウェストミンスター信仰告白」第三章(神の永遠の決断について)第五項
 「神は人類のうち永遠の生命に予定された人々を、世界の礎の据えられぬうちに、この永遠にして不変なる志向と、みずからの意志の見ゆべからざる企図と専断にもとづいて、キリストにあって永遠の栄光に選び給うた。これはすべて神の自由な恩恵と愛によるものであって、決して信仰あるいは善き行為、あるいはそのいずれかにおける堅忍、あるいはその他被造物における如何なることがらであれ、その予見を条件あるいは理由としてこれを為し給うのではなく、かえってすべて彼の栄光にみちた恩恵の賛美たらしめんがためである」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』146頁)

 

 人々が救われるか否かは、すべて神がその自由な意思によって決定します。人々が心をこめて信仰を貫いても、救われるかどうかは分かりません。善き行いをしたからといって、救われる保証はありあせん。また、神の栄光を称えるための被造物を造ったとしても、救われるための条件にはなりません。逆に、何をしなくても、たとえ悪事を働いたとしても救われるかも知れないのです。
 人々の未来は、すべて神が決めることです。善悪の判断などは、しょせん人間が作ったものに過ぎません。人間の是非善悪の基準で、神の意思を推し量ることなどできません。人間が想像し得る範囲で定めた条件などで神の救済を規定するなど、神の栄光を冒涜する行いに他ならないのです。
 つまり、予定説では、誰が救済されるかはあらかじめ神がすべてを決定しているのであり、人間の行いによってその決定が変えられることはあり得ないのでした。
 そして、キリストが原罪を償ったのは万人のためではなく、神が選んだ人々のためだとされました。しかも、キリストの贖罪の死さえも、神があらかじめ予定していたことに過ぎないとされたのです。つまり、キリストの役割が小さく捉えられ、逆に神の全能性が強調されることになっています。
 予定説で現わされた神は、これほどまでに決定的な力を持った全能性を有することになりました。キリスト教はここに、原父の完全な復活を果たし、父親の宗教へと回帰したのでした。

 

信徒たちの不安

 ここで、以前のブログで紹介した、旧約聖書の『ヨブ記』に記された物語を思い起こしてみましょう。この物語に貫かれている主題は、神の全能、絶対性でした。ヨブは信仰に厚く、まったく正しい行いを貫いていましたが、神によって筆舌に尽くしがたいほどの不幸な境遇に落とされました。

 この物語では、人がどのような行いをしようとも、救済を与えるか否かを決定するのはあくまで神の意思だけに拠っていました。そこには人間の行い、人間の価値判断が入り込む余地はありませんでした。この神こそ、予定説によってキリスト教に復活した、父なる神のモデルであったと考えられます。そして、予定説によってキリスト教の神は、ヨブだけでなくすべての人間に、究極の全能性を及ぼす存在になったのです。
 一方、このような神を戴くことになった教徒たちの苦悩は、察するに余りあります。『失楽園』を書いたミルトンが、「たとい地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」と語ったことが紹介されています(同上151頁)。この心情は、『ヨブ記』の物語を読んだ人とも共通するのではないでしょうか。

 この心情を最もよく汲みとることができる文献が、ピュウリタンであったバニヤンの『天路歴程』です。

 その中に次のような一節があります。

 

 「滅亡の町」に住んでいることに気づき、一刻も躊躇せずに天国への巡礼に旅立たねばならぬとの招命を聞いたクリスチャンがとった態度は、このようであった。「妻子は彼にとり縋(すが)ろうとする が、彼は指で耳をふさぎ、『生命を、永遠の生命を!』と叫びながら野原を駆け去っていく」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」159頁)


 信徒たちは、救済を得られないことを極端に畏れました。そして、根本において自分自身を問題とし、ただ自分の救いのみを考えたのでした。

 

救済を知る術とは

 では、救済がすでに決定されてしまっているとするならば、自分は救済されているのかいないのか。プロテスタントの関心は、次にはその一点に集中されることになるでしょう。はたして、それを知る術はあるのでしょうか。

 

  ウェストミンスター信仰告白」第十章(有効なる召命について)第一項 
 「神は生命に予定された人々、しかも彼らのみを、みずから定めかつ善しとし給うた時期に、みずからの言と霊をもって有効に召命することを喜び給う。・・・・こうして神は彼らの頑固な心をとりさって柔軟な心をあたえ、また彼らの意志を新たにして、その全能の力によりこれを善きことへと定め給う」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』147頁)

  ウェストミンスター信仰告白」第五章(摂理について)第六項 
 「神が正しい審判者として、その過去の罪ゆえに盲目にし頑なにし給う悪しき、不信仰な人々についていえば、神は彼らに恩恵を拒み、これによって彼らの悟性が照らされ心を動かされることを無からしめ給うのみでなく、また時には彼らのもてる賜物をもとりさり、その頽廃が罪の機会を作るにいたるべき事物に近づけ、それによって彼らをみずからの欲望と世の誘いとサタンの力とに委ね給う。その結果彼らは、神が残余の人々を従順にし給うと同じ手段によってさえも、みずからをますます頑固とするのである」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』147頁)

 

 ここで記されているのは、救済を約束されている人々は、柔軟な心をもって神の意思に従い、神が定めた善きことを行うようになるのであり、救済されない人々は、頑なな心で信仰を拒み、自らの欲望とサタンの誘惑にしたがって罪を犯すようになるということです。

 これは、信仰を重んじて善行をなした者が救済され、信仰を軽んじて悪行を重ねた者が救われないということを意味するのではありません。両者は一見同じことを言っているようにみえますが、原因と結果がまったく逆になっています。
 つまり予定説では、神が救済を予定した人は、どんなに信仰を拒否しようとしても、本人の意思とは無関係にキリスト教を信仰して善行を行うように決定されています。一方、頑なに信仰を拒絶する人は、神の救済が予定されていないために、いくら善行を積もうと自らが努力してもできないのです。
 したがって救済とは、決して人間の努力を神に判断してもらうことではありません。ここでも神はあらかじめ、すべてを決定しています。そして、救済されているか否かは、神の意思にしたがって必然的に信仰にいそしみ、善行を重ねているという自らの行いをもって事後的に確かめるしかないのです。

 その結果として、人々は無意識のうちに進んで信仰を重んじ、善行を重ねるようになりました。自分の意思でキリスト教を信仰し、努力して善行を重ねても、それは救済の証しにはなりません。救われる人々の信仰や善行は、神の意思によってすでに導かれているはずです。救いの確証を得るためには、本当は自らの意思で行っていることを、神によって行わされているのだと信じ込まなければなりません。そのためには、信仰したいという意思や、努力して善行を行おうとする気持ちを否認し、意識の外部に追いやらねばなりません。そうすることによって初めて、自らの意思と関係なく、神によって導かれていると信じることができるのです。
 しかし、否認した意思や感情は、完全に消え去ってしまうわけではありません。本当は自分の意思で信仰しているのではないか、神の意思に従って行動していないのではないかという疑念は、折に触れて頭をもたげてきます。そこで人々は、こうした疑念を打ち消そうとして、さらに脇目もふらず信仰と善行に励んだのです。

 

資本主義の精神の成立
 ところで、彼らにとっての善行とは何でしょうか。それが世俗内の職業であるのは、カルヴァン派もルターの「天職概念」と同様でした。

 

 「神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の誡めに適い、その目的に合致するように編成されていることを欲し給うからなのだ。カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら》in majorem gloriam Dei《「神の栄光を増すため」のものだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』166頁)

 

 カルヴァン派信徒においては、「神の栄光を増すため」に与えられた職業を全うすることが善行とされました。こうして、彼らは自分が救われていることを確証するために、善行を重ねるがごとくに働いたのです。
 ヴェーバーは、次のように指摘しています。

 

 「そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだった。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』179頁)

 

 こうして予定説の神を戴く人々は、自らの救済が予定されていることを確信したいがために、神に与えられた職業労働にひたすら邁進することになりました。
 以上で述べてきたように、宗教改革によって、プロテスタントの教義は、資本主義の精神を形成するために重要な役割を果たし、当時の人々の行動様式に根底から影響を与えました。そして、キリスト教は厳格な一神教としての側面を復活させることになったのです。(続く)

 

 

文献

1)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の  精神.岩波文庫,東京,1989.