キリスト教の神はなぜ殺害されたのか(1)

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 フロイトによれば、一神教の系譜には「父親の殺害」が繰り返されています。人類の初期に強大な力を持って母親および姉妹のすべてを支配した「原父」は、兄弟たちによって殺害されました。イスラエルの民をエジプトから脱出させ、エジプトの一神教を強要したモーセは、イスラエルの民に殺害されました。そして、ユダヤ教を愛の教えで改革しようとしたイエスは、ユダヤの人々から殺害されました。この殺害は、キリスト教においても繰り返されることになりました。

 今回のブログでは、キリスト教の神の殺害が、近代においてなぜ行われることになったのかを検討したいと思います。

 

息子と母親の宗教

 フロイトは、イエスの人生をモーセの人生になぞらえ、イエスモーセの後継者に指名する役割を果たしたのがパウロであったと指摘します。さらに、イエスが奇蹟の復活を遂げたとするストーリーを加えることによって、イエスを神の立場に引き上げたと述べています。

 

 「こうなると、キリストの復活にもまた一片の歴史的真理が宿ることになる。なぜならば、キリストは原人たちの群れに回帰してきた原父であり、神々しく変容して、息子として、父親の場に押し上げられた者だったからである」(『モーセ一神教1)135頁)

 

 イエスが奇蹟の復活を遂げたことによって、イエス・キリストは救世主を超えて、神の息子に変容しました。そして、キリストが息子として父親の立場に押し上げられたことには、重要な意味があるフロイトは言います。

 

 ユダヤ教は父親の宗教であったのだが、キリスト教は息子の宗教に変貌を遂げてしまった。古い父なる神はキリストの背後に退き、キリスト、この息子たる者が、父なる神に取って代わってしまった。まさしく、先史時代にすべての息子がそれぞれ熱望していたことが起こったのである」(『モーセ一神教』132頁)

 

 キリストは、神の息子であると共に、先史時代の息子たちの後継者でもありました。そのキリストが、原父を殺害するのではなく、自らの死で人類の原罪を償ったうえで原父の立場に立ちました。これこそ、先史時代に息子たちが望んでも手に入れることが出来なかった父親の立場を、罪を贖うことによって勝ち取った瞬間でした。

 その結果、キリスト教は、父なる神を背後に退けた、息子の宗教に変貌を遂げたのです。

 さらにキリスト教は、普遍的な愛の概念を創り上げるために、また布教上の必要性から聖母マリア信仰を取り入れることになります。その結果、キリスト教は、一神教としての厳格な父性的宗教から、母性的性格を取り込んだ多神教的な宗教へと変貌していきました。

 

 キリスト教はもはや厳格に一神教ではなくなり、周辺の諸民族から数多くの象徴的儀式を受け入れ、偉大なる母性神格をふたたび打ち立て、より低い地位においてであるにせよ、多神教の多くの神々の姿を見え透いた隠しごとをするような仕方で受容する場を設けてしまった」(『モーセ一神教』133頁)

 

 キリスト教は、厳格な意味では一神教でなくなっていきます。偉大なる母性神格である聖母マリア信仰や、キリストから権能を授けられた十二使徒、そのひとりであるペテロの後継者としての教皇などが神の権威の一部を分け持つことになりました。そこには、キリストを頂点とし、神の権威の一部を有する使徒たちを含めた多神教的要素が認められます。

 しかし、キリスト教はやがて、父親の宗教としての側面を復活させます。それはキリストの背後に隠されていた、唯一、全能の神へと回帰することでした。息子の宗教から父親の宗教への転換をはかろうとする試みが、中世末のヨーロッパに起こった宗教改革です。息子の宗教の性格を持つのがカトリックであるのに対して、父親の宗教の性格をもつのがプロテスタントでした。

 なぜキリスト教において、このような改革が行われることになったのでしょうか。

 

イスラム社会の隆盛

 中世のヨーロッパは、キリスト教の原理が支配する社会でした。近代以降には「暗黒の中世」などと呼ばれ、社会や文化の発展が停滞した時代と捉えられていますが、多民族が入り混じって紛争が絶えなかったヨーロッパの精神的支柱となり、社会をまとめたのはこの時代のキリスト教であり、その中心はローマ・カトリックでした。キリスト教は、「愛の教え」によって暴力的な戦いを阻止し、社会を安定させる役割を担っていたのです。
 ところが、ヨーロッパ中世のキリスト教社会に変革の時代が訪れることになりました。その原因となったのが、イスラム教社会の隆盛とその影響です。
 7世紀にムハンマドマホメット)を預言者としてイスラム教が成立すると、古来より統一国家ができなかったアラビアに、イスラム帝国というイスラム教国家が誕生しました。イスラム帝国はアラビアを中心として、東はインダス川流域から地中海側のアフリカを通って、西はスペインにまで至る大帝国になりました。
 帝国の繁栄と産業の隆盛、そして交易の発達に伴って、イスラム教は世界各地に広まりました。また、ギリシア、イラン、インドなどの当時の先進国を制服したことによって、それらの文化を融合して独創的な総合文化を創り上げました。さらに自然科学は発達を遂げ、哲学や神学もギリシア、ローマの影響を受けて研究が進められました。『アラビアン=ナイト』を始めとした文学や、モスクなどにみられる建築美術も隆盛を極めました。

 このように中世におけるイスラム世界は、産業、文化において世界の中心でした。それにとどまらず、軍事面においても他を圧倒する力を誇示していたのです。

 

イスラム世界の侵攻

 イスラム世界の拡大によって、ヨーロッパ・キリスト教社会は圧迫されました。歴史上、ヨーロッパは二度にわたってイスラム世界に征服されそうになっています。一度目は8世紀前半にイスラム帝国によって、二度目は16世紀前半にオスマン=トルコ帝国によってです。

 キリスト教社会は、732年のツール・ポアチエの戦いと1529年のウィーンでの戦いによってイスラム世界の侵攻を辛うじて防いだのですが、そこから受けた精神的影響は多大であったと考えられます。
 イスラム帝国の侵攻の後、ヨーロッパでは封建制度が進むとともに、教皇を中心とした教会制度が発展を遂げました。12世紀には教皇の権威は頂点に達し、ヨーロッパ社会の精神的支柱となりました。こうした状況において、イスラム世界への十字軍の遠征が行われたのです(1096年~1270年)。
 宗教的側面からみると十字軍の遠征は、後発の一神教であるイスラム教に圧倒されていたキリスト教徒が、教皇のもとに体勢を立て直し、劣勢を逆転するために仕掛けた執拗な戦いであったと考えられます。約200年の間に7回にわたって繰り返された十字軍の遠征は、聖地を奪回することなく終わりました。遠征は当初、主唱者だった教皇の世俗的権威を大いに高めましたが、その後の相次ぐ遠征の失敗は、逆に教皇の威信を急速に低下させることに繋がりました。
 さらに優秀なイスラム文化との接触は、ヨーロッパ文化に影響を与え、文化の革新が押し進められました。ギリシャの科学や哲学はイスラムに保存されており、加えてアラビア数字と零の発見、三角法の発達、火薬、羅針盤、印刷の実用化などがイスラム文化で興っていました。これらはやがて、ヨーロッパの近代科学の基礎となってゆきます。聖書の研究もイスラム世界で行われており、ヨーロッパの神学におけるその後の発展に寄与することになりました。

 十字軍遠征の結果、イスラム教社会の優位は動かしがたいものであることが明確になりました。文化においても軍事面においても、イスラム社会はヨーロッパを凌駕していました。

 そのことが、社会の中心を成していた宗教を問い直す気運をもたらしました。当時の社会は、制度や文化が宗教と密接に結び付いていました。したがって、社会の改革を断行するためには、キリスト教を変革することから始めなければならなかったのです。

 

宗教改革

 こうして16世紀の始めから、ヨーロッパにおいて宗教改革が展開されることになりました。宗教改革キリスト教の原点回帰運動でしたが、改革の本質は、キリスト教を厳格な一神教として復活させることにありました。
 一般的には、宗教改革が起こった原因は、ルターが免罪符の販売に抗議したことに象徴されるように、当時の腐敗した教会制度にあったと考えられています。しかし、ローマ教会の外形的儀式や教理を否定することならすでにエラスムスが行っていましたし、さらに遡れば、14世紀後半にはウィクリフやフスによって、教皇権威の否定や聖書への回帰が叫ばれていました。
 また、聖職者がこの時期に至ってとりわけ堕落したわけでもありません。ローマ教会は、もとより末端の聖職者を養成する教育機関を持っておらず、お目付役の司教にしても、以前より司牧の義務を怠る悪弊がはびこっていました。ウィクリフやフスが教会の根本的改革を訴えたのも、その当時のローマ教会が世俗化し、腐敗していたからです。
 したがって、ルターやカルヴァンによる改革運動が、16世紀に大きなうねりとなって発展したのは、宗教改革を必要とする要請が当時の社会全体に存在していたからに他なりません。この社会的要請こそ、イスラム教社会への劣等感を克服することだったのだと考えられます。

 

予定説

 宗教改革がようやく端緒についたころ、オスマン=トルコによる、イスラム世界のヨーロッパ侵攻が始まりました。トルコ軍はバルカン半島を侵略し、ヨーロッパ内陸部へと進軍しました。そして、1529年にウィーンの町は、トルコ軍の侵攻に陥落寸前まで追い詰められたのでした。
 この事件が、同時期に進められていた宗教改革に大きな影響を与えることになりました。地理的にみると、宗教改革の中心であったドイツとスイスに近接するオーストリアの首都ウィーンにまでトルコ軍は迫っていました。宗教改革は加速の度を増し、その結果として、神の唯一、全能性が究極にまで高められた教義、すなわち予定説が誕生したのです(カルヴァン、「キリスト教綱要」1536年)。
 このように、キリスト教宗教改革は、イスラム教への対抗意識から生まれたという側面が認められます。そして、イスラム世界からの圧迫がなければ、後に述べるような厳格な内容にはなり得なかったと考えられます。

 『失楽園』を書いたミルトンは、「たとい地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」と語りましたが、ミルトンだけでなく誰においても、人間の努力をいっさい認めずに、救済に対してすべてを一方的に決定するような神を戴くことは耐えがたいことです。

 なぜ、ヨーロッパの人々は、このような神が存在する宗教を創り上げ、そして受け入れなければならなかったのか。それは、当時のヨーロッパが置かれていた状況、つまりイスラム世界から征服されそうな状況において生じた危機感が、人々の無意識の中に存在していたからに他なりません。イスラム世界に対抗するには、イスラム教を超える全能の神を戴かなければならなかったのです。

 

イスラム教の神

 ちなみに、イスラム教の神についてマックス・ヴェーバーは、「イスラムのばあいには、(中略)宿命論的な予定説であり、したがって地上の生活の運命には関係があっても、来世での救いにはなんら関係するところがないものだった」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神2)176頁)と述べています。つまり、イスラム教においても、地上の生活の運命については神があらかじめすべてを決定するという予定説の立場をとっています。現世の運命はすべて神によって決定されているという意味で、「宿命論的な予定説」なのです。
 しかし、来世において救済されるかどうかは、コーランにしたがって善行を積み重ねるかどうかにかかっており、そこには人間の努力を認める余地が充分に残されています。救済を受けるためには、神から与えられた宿命に対してどのように対応するかが重要なのです。この意味でイスラムの神は、人間の意志や努力を認めるという点において徹底した絶対性、全能性を有していませんでした。しかし、その分だけイスラム教徒は、救済への自己努力に安心して励むことができたでしょう。

 

宗教改革の意義

 予定説によってイスラム教を超える全能の神を戴くことになったヨーロッパの人々は、イスラム世界に対する劣等感を克服し、自身の誇りを取り戻す手段を獲得しました。フロイトユダヤ教において指摘した、「この神を信じる者はある程度はこの神の偉大さを分け持っていたのであり、自身が高められたと感じても当然であった」(『モーセ一神教』168頁)という精神過程が、キリスト教の神とキリスト教徒の間にも起こったわけです。精神分析学的に解釈すれば、宗教改革はヨーロッパの自尊心を取り戻すために行われたのであり、宗教改革の意義はまさにこの点に集約されるのです。

 さて、今回のブログでは、中世末のヨーロッパで宗教改革が起こった社会的背景について検討してきました。次回のブログでは、宗教改革キリスト教の神の全能性がいかに高められたのかについて検討したいと思います。(続く)

 

 

 

文献

1)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.
2)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の  精神.岩波文庫,東京,1989.