キリスト教社会はなぜ戦争を繰り返すのか(1)

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 前回までのブログで、キリスト教が愛を説く宗教であることを述べてきました。ところが、キリスト教を奉じた国々は、ローマ帝国からヨーロッパ諸国、そしてアメリカ合衆国に至るまで、幾度となく戦争を繰り返し、他国を侵略してきました。なぜ、愛を説く宗教を奉じる国々が戦争を繰り返すのか。しかも、時には筆舌に尽くしがたいほど残虐な戦争を行うのか。その疑問を、宗教・文化的な側面から検討してみたいと思います。

 

エスの改革

 イエスは、ユダヤ教を「愛の教え」によって改革しようとしました。父なる神は、恩を知らない者にも、悪人に対してさえも、憐れみ深くその愛を注ぐと教えました。そして人にも、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するように求めました。加えて、神が人に向ける愛と同じ愛を、隣人に対しても向けるよう諭しました。こうしてイエスは、神と人との縦方向に向かう愛を、さらに人と人との横方向に向かう愛にも適用させようとしました。イエスは、この愛の教えによって、愛の秩序で構築される神の国という理想の社会を実現させようとしたのです。
 イエスの教えは、パウロによって完成され、キリスト教となって結実しました。キリスト教はやがてローマ帝国の国教になり、中世ヨーロッパにおける精神的支柱になって行きました。
 こうしてヨーロッパに拡大していったキリスト教は、戦争にどのような影響を与えることになったのでしょうか。

 

キリスト教の教義と戦争
 キリスト教は当初、イエスが唱えた「絶対の愛を与える神」が前面に現れて広まって行きました。キリスト教は、愛の宗教として発展したのです。
 しかし、イエスが唱えた神の愛は、父なる神が与える愛だったことには注意を要します。神の絶対愛(アガペー)は至高の愛でしたが、どのような人間にも注がれる愛ではありません。イエスによれば、自分の犯した罪を認めず、自らの義を主張する人間は神に愛されませんでした。自らが犯してしまう罪を認め、その罪を率直に神に懺悔するという行為を通して、人は神から愛されました。
 また、パウロは、イエス・キリストが贖罪の死を遂げ、神の教えを伝えるために奇蹟の復活を遂げたことを信じる者は救われると述べましたが、逆に言えば、この教えを心から信じられない者は救われませんでした。
 つまり、父なる神が注ぐ愛は、無限の深さを持つものの、無条件で与えられる愛ではありませんでした。その特徴は、母性の特徴である「無差別にすべてを包み込む、限定を知らない普遍的な愛」と対比することによってより明確になります。父性に特徴づけられる神の愛は、無差別、無限定に与えられるのではなく、罪を認め、懺悔するという行為や、イエス・キリストを信じるという内面の態度を示すことによって、初めて与えられる限定された愛なのです。
 この「限定された愛」を補ったのが、聖母マリア信仰でした。イエスの母マリアが聖母として信仰の対象にされたのは、イエスが単なる預言者や救世主ではなく、神の子として崇められることになったからです。しかし、イエスの改革に何ら携わることなく、イエスの死後に特別の働きをしたわけでもないマリアが聖母となるためには、特別の理由づけが必要でした。そこで創り出された物語が、大天使ガブリエルによる受胎告知であり、マリアの処女懐胎でした(ちなみに、最初に編纂された『マルコによる福音書』には、この物語は記されていません)。
 そうまでしてマリアを聖母にしなければならなかった理由の一つは、イエスの説いた神の愛が限定された人間に注がれるものであり、そのことが人々に不安を与えたからであると考えられます。聖母マリアは、この不安を包み込むかのように、慈愛と寛容と聖なる母性の精神を持つ存在とされたのです。

 こうして、キリスト教は愛の宗教として発展しました。では、キリスト教を信じる人々は愛の教え通りに行動し、キリスト教社会には愛の教えを基本にしたエートスが形成されたのでしょうか。その後の歴史をみれば明らかな通り、実際のキリスト教社会は、攻撃的で戦闘的な側面を有し、他の社会を戦争によって征服する行為を繰り返すことになりました。この矛盾は、なぜ起こったのでしょうか。

 

アウグスティヌスの解釈

 イエスは、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイによる福音書」5・39)と述べています。この教えを忠実に履行したなら、戦いは決して起こらないでしょう。事実、初期の教父たちはこの教えを忠実に守り、すべての暴力を否定し、キリスト教徒が戦争に参加することを禁じました。
 しかし、社会全体がイエスの教え通りに行動すれば、その社会は確実に他の社会から征服されてしまうでしょう。キリスト教がローマ社会に浸透するにつれ、これは避けて通ることのできない問題となりました。
 そこで、この問題の解決に先鞭をつけたのが、古代末期を代表する教父と言われる聖アウグスティヌスでした。先のイエスの教えに対して、アウグスティヌスは次のように述べています。

 

 「ここで求められているのは、身体を動かす振舞でなく、心の態度のことなのだ。徳が占める聖なる座は心である。それはもとから清廉な方であられたわれらが御父の御心でもあるのです」(「『正しい戦争』という思想」1)125-126頁)

 

 つまり、アウグスティヌスは、「悪人に手向かってはならない」という教えは文字通りの命令ではなく、心の態度の在り方を教えているのだと理解したのです。
 そして彼は、戦争について次のように指摘します。

 

 「戦うことは不法な行為ではない。掠奪のために戦うのが罪あることなのである。国家を戦争へと向けることが罪悪ではない。何よりも富を増すために国家を戦争へと向けるのが忌まれるべきなのである」(「『正しい戦争』という思想」54頁)

 

 戦うこと自体が不法なのではなく、戦う目的が問題なのであり、国家の戦争においても同様に考えることができるとアウグスティヌスは考えました。彼は、個人のレベルで暴力を用いることは認めませんでしたが、公的な次元では、正当な殺人や武力行使はあり得るという立場をとっていました。そして、正当な理由があれば殺人や武力行使は罪なる行為には当たらないという見解を示したのです。

 ここから、キリスト教社会では、戦争に正当な理由があるのか、つまり正しい戦争とは何かという問題の追求が始まりました。

 

正しい戦争とは

 しかしながら、正しい戦争といっても、それはあくまで一方の社会なり国家なりの見方に過ぎないでしょう。戦争をする当事者双方に共通して、理解を得られる正しい戦争などが存在するはずはありません。アウグスティヌスの見解は拡大解釈され、正しい戦争論は当然キリスト教社会にとって都合にいいように展開されるのが常でした。
 たとえば、キリスト教社会が11世紀に十字軍の遠征を起こす際に、当時の教皇ウルバヌス二世は、民衆に対して次のような演説を行っています。

 

 「わが親愛なる兄弟たちよ。もしあなたたちが真にエルサレムの聖性と栄光の創り手に憧れ、キリストがこの世に残された足跡を愛するのであれば、密集して群れをなす異教徒たちによって汚染されている、このまちの聖性と墓の栄光を浄化するために、全力で、またあなたたちを導きあなたたちのために戦う神とともに、尽力しなければならない」(「『正しい戦争』という思想」14頁)

 

 十字軍の遠征は、キリスト教社会が初めて行った聖戦でした。ウルバヌス二世の呼びかけによって、キリスト教社会は、7世紀からイスラム教徒によって支配されていたエルサレムに、奪還のための兵を大挙して送ったのです。しかし、どのような理屈を並べようとも、十字軍の遠征は、イスラム教徒からみれば突然の一方的な侵略としか映らなかったのではないでしょうか。
 さらに、もう一つ例をあげてみましょう。大航海時代ローマ教皇は、ポルトガルやスペインの国王に対して次のような教勅を与えています。

 

 「(ローマ教皇)ニコラウス五世は、(中略)ポルトガル国王に対しセウタ、ポジャドール岬や全ギニアからさらにその南部沿岸に彼方に及ぶ海域に住む『異教徒たち及びその他のキリスト教の敵、ならびに彼らの王国や領土・・・、彼らの有するすべての動産と不動産を奪い、征服し、捕獲し、攻撃し、服従させ、彼らの人格を永遠の隷属の下におき、・・・彼らを彼らの利益のために改宗させる、完全かつ自由な権限』(中略)を与えることを約束した。(中略)

 スペインもまた同様の『許可』をローマ教皇によって与えられている。アレクサンデル六世の『インテル・カエテラ』(贈与大教書、1493年5月)である。これは、『これまでだれにも発見されてこなかった大地を発見した』コロン(コロンブス)に対し、『発見されたすべての島と土地をあなたたち、およびあなたの後継者たち』に与えることを認めている」(「『正しい戦争』という思想」69頁)

 

 ここに至って正しい戦争論は、「キリスト教徒の敵」とみなされた人々に対しては、どのように扱っても構わないという内容にまで達してしまうのです。
 キリスト教社会における戦争は、なぜこのような一方的な論理を生んでいったのでしょうか。

 

戦争に対する行動規範の欠如

 その理由の一つは、キリスト教が、表立って聖戦論を掲げられないことにあると考えられます。キリスト教(の新約聖書)には、戦いや戦争を正当化する教えが述べられていません。それどころか、イエスは暴力を否定する教えさえ残しています。したがって、厳密に言えばキリスト教徒は、キリスト教の教えによって正当化される聖戦は行えないことになります。
 そこで、ヨーロッパ社会では、正しい戦争とは何かという議論を発展させながら、戦争を遂行することになったのです。この考え方は、ヨーロッパに始まる正戦(just war)論として現在まで引き継がれています。
 しかし、そのことが却って、ヨーロッパ社会に自由に戦争を行える素地を作ることになりました。なぜなら、何が正しい戦争であるのかを規定するのは、神や経典ではなく、人間になったからです。経典に記された教えは状況の変化によって変えることはできませんが、人が正しいと決める内容は、恣意的に、しかも、いかようにも変更することができるのです。
 上述したように、教皇が戦争の正当性を宣言すれば、それは正しい戦争と認識されるようになります。そこには経典による縛りはなくなり、しかも正しい戦争とのお墨付きが得られれば、人々は経典から離れ、良心の呵責に囚われずに自由に振る舞うことが可能になりました。

 こうしてキリスト教徒たちは、「キリスト教の敵」に対して、「彼らの有するすべての動産と不動産を奪い、征服し、捕獲し、攻撃し、服従させ、彼らの人格を永遠の隷属の下におく」ことに何の躊躇も示さないで戦うことができましたし、「新たに発見した大地」の所有権を、勝手に宣言することに何の疑問も抱きませんでした。
 愛の教えを徹底して追求したキリスト教は、戦いそのものを否定したことによって、戦いに対する制御力を失ってしまったという見方もできるでしょう。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えは、戦いが起こらない状況、すなわちキリスト教徒同士(または同じ宗派同士)の関係に限定されました。そして、これらのことが、キリスト教徒以外の人間はどのように扱っても構わないという、戦争におけるキリスト教社会のエートスを創り上げる結果を招いたのです。

 さて、次回のブログでは、キリスト教社会が戦争を起こすもう一つの理由について検討してみたいと思います。(続く)

 

 

文献

1)山内進(編):「正しい戦争」という思想.勁草書房,東京,2006.