キリスト教はなぜ愛を説くのか(4)

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 前回のブログでは、イエスがなぜ愛の重要性を示したのかを検討してきました。今回のブログでは、イエスユダヤ教をどのように改革しようとしたのかについて、さらに検討を加えたいと思います。

 

神から愛される人

 イエスによって、人は神の教え通りは生きられない、罪を背負った存在であるという認識が生まれました。そして、人は自分の罪を認め、神に身を委ねることによって救われるという新たな救済の方法が、イエスによって導き出されたのです。
 イエスのこの教えによって、人が何によって神から義と見なされるかが示されました。そして、このことは、それまでのユダヤ教の見解を百八十度転換させる革命的な意味を持っていました。
 イエスは、「山上の説教」で次のように述べています。

 

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」新約聖書1)『マタイによる福音書』5・3-10)

 

 イエスが救われると説いた人々は、このように、「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」でした。これらの人々に共通するものは何でしょうか。それは、自らの罪を認め、神に頼ることのできる可能性を持つ人々です。
 これは、イエスが幸いを得られない人々として語った次の言葉によって、より明確にされます。

 

 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(『ルカによる福音書』6・24-26)

 

 現状に満足し、すべての人に誉められる人々が救われないのは、自らの義を主張し、神の前で自らの罪を認められない可能性が高いからだと考えられます。ユダヤ教の律法学者たちは、周りから尊敬され、自らの正しさを主張するという意味において、まさに「救われない人々」の代表でした。
 一方、イエスが救われると説いた人々は、現実の社会では報われていない人々です。イエス安息日においても貧しい病人を見舞い、奇跡によって報われない人々を救ったのは、彼らこそ天の国に迎え入れられるべき人たちであると考えたからでした。
 イエスに幸いがあると説かれ、イエスの教えを信じた人々にとって、神は迫害を加えかねない恐ろしい存在ではなく、自らを救い導いてくれる、慈愛に満ちた存在として感じられたでしょう。イエスの改革は、こうして報われない人々から神への猜疑心と敵意を解消させていったのです。
 しかし、律法を重視し、律法を遵守することによって神からの救いが得られると信じるユダヤ人からは、イエスの教えは常軌を逸するものとしか捉えられませんでした。そのため、イエスは、律法学者やファリサイ派の人々から危険視され、糾弾を受けることになったのです。

 

隣人への愛

 さて、次に、イエスが最も重要だと語った第二の掟についても検討してみましょう。
 「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、旧約聖書2)レビ記』に記されています。神がモーセに告げた掟として、こう記されています。

 

 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(『レビ記』19・18)

 

 ここで述べられている「隣人」とは、その前に「民の人々に恨みを抱いてはならない」と記されていることからも分かるように、イスラエルの民に限定された隣人のことでした。しかし、イエスは、この掟における「隣人」の概念をも変革しました。
 「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねる律法学者に対して、イエスはたとえ話を用いて次のように答えています。


 ある人が旅の途中で、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、宿屋の主人に銀貨二枚を渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」
 この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか、と尋ねるイエスに対して、律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えた。(『ルカによる福音書』10・30-37)


 この「善いサマリア人」のたとえ話は、隣人の概念を大きく変えることになりました。サマリア人は、イスラエル人とアッシリアからの移民との間に生まれた人々です。サマリア人イスラエル人は、王国が北と南に分裂して以来、信仰を巡って互いに憎悪し合う関係にありました。イエスが愛すべき隣人としてわざわざサマリア人を用いたことには、重要な二つの意味が含まれています。
 一つ目の意味は、隣人の概念が、民族の枠を超えたことにあります。イエスは、人の不幸を見過ごした祭司やレビよりも、親身になって助けてくれたサマリア人を隣人として認めました。

 それまでのユダヤ教は、専らユダヤ民族を救済するための宗教でした。しかし、このときから「自分のように愛する隣人」は、初めてユダヤ民族以外にも拡張されたのです(当時サマリア人は、ユダヤ民族とは認められていませんでした)。この教えは、後にキリスト教世界宗教に発展して行くための礎となりました。

 

憎悪の対象を愛せ
 二つ目の意味は、隣人としてあげられているのが、「イスラエル人の血を穢した者」として、憎悪の対象であったサマリア人だったことにあります。イエスは、「善いサマリア人」という理由だけで、彼を隣人として認めたのではない。イエスは、憎悪の対象にすら愛を向けるように教えたのです。

 それは、「山上の説教」で語った、イエスの以下の言葉からも確認することができます。

 

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」(『ルカによる福音書』6・27-35)

 

 このようにイエスは、敵さえも愛し、たとえ憎む者であっても親切にするよう教えています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」という有名な言葉は、ここに記されています。それにしてもイエスは、なぜ敵や憎む者に対してまで、愛を向けるよう諭したのでしょうか。
 イエスは、続けて言います。

 

 「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(『ルカによる福音書』6・35-36)

 

 イエスが語った隣人愛は、父なる神の愛そのものでした。父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさいとイエスは教えています。
 ここに、神の絶対愛(アガペー)という概念が誕生しました。父なる神は、恩を知らない者にも、悪人に対してさえも、憐れみ深くその愛を注ぎます。神の愛は、こうして至高の愛にまで高められました。全能、絶対の神が有する愛は、やはり「絶対の愛」でなければならなかったのです。
 イエスは、神が人に与える絶対愛と同様に、人も「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛するように求めました。これに加えて、神が人に向ける愛と同じ愛を、隣人に対しても向けるよう諭しました。こうしてイエスは、神と人との縦方向に向かう愛を、さらに人と人との横方向に向かう愛にも適用させようとしたのでした。
 イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」(『マタイによる福音書』5・17)と語っています。それはユダヤ教の片隅にあった愛の概念を、このように発展させ、完成させることを意味していたのです。

 イエスは、この愛の教えによって、神に対する猜疑心や敵意を完全に消し去ろうと試みたのでした。そして、愛の秩序で構築される、「神の国」という理想の社会を実現させようとしたのではないでしょうか。(了)

 

 

文献

1)「新共同訳 新約聖書」.日本聖書協会,東京,2002.
2)「新共同訳 旧約聖書」.日本聖書協会,東京,2001.