キリスト教はなぜ愛を説くのか(3)

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 フロイトは、原父殺害の記憶がユダヤ教を生み、さらにそれがキリスト教に発展したという説を展開しました。では、原父殺害の記憶から生まれたキリスト教が、なぜ愛を説く宗教になったのでしょうか。

 

ユダヤ民族と神との関係

 フロイト一神教の原点に、原父殺害の物語を描いています。強大な力を持って母親および姉妹のすべてを支配した原父は、兄弟たちによって殺害されました。この過ちを繰り返さないようにタブーが生まれ、それが社会規範の始まりになったとフロイトは説明します。このことは、一神教が成立する原点には、原父という支配者を殺害する行為が存在したことを意味します。つまり、一神教文化は、支配者の殺害を原点として形成されており、一神教社会は、支配者殺害の共犯者の集団として出発していると考えることができるのです。
 原父殺害の記憶痕跡は、後にユダヤ教として結実することになりました。殺害された原父は、ユダヤ教において、モーセモーセの神となって蘇りました。ただし、フロイトがこの反復されたストーリーに、多少の変更を加えている点に注意しなければなりません。その変更とは、モーセがエジプト人であり、モーセの神がエジプトのアートン教の神であったとされていることです。モーセとその神は、ユダヤ民族にとっては実父ではなく、継父だったのです。これは、一神教文化を考えるうえで、非常に重要なポイントになります。
 神が継父であることに重要な意味が生じるのは、次の点においてです。フロイトは、原始社会において、兄弟たちが絶大な力を持った父親を敵視し憎んでいた一方で、父親を愛し敬う感情も抱いていたと述べています。兄弟たちが父親を愛し敬う感情を抱いていたのは、父親が彼らの実父だったからでしょう。実父だからこそ、自分たちを追放し、母親や姉妹を独占していても、愛し敬う感情が生じる余地があったのです。
 ところが、兄弟たちを追放し、母親や姉妹を独占していた男が、仮に継父だったとしたらどうでしょうか。兄弟たちは、継父を敵視し憎むだけで、愛し敬う感情を抱かなかったでしょう。そして、継父を殺害したことに対して、実父に対して抱いたような悔恨に基づく罪の意識を抱かなかったのではないでしょうか。
 イスラエルの民において繰り返された原父殺害の物語は、実は継父殺害の物語でした。イスラエルの民にとってモーセとその神は、フロイトによれば継父でした。イスラエルの民がモーセを殺害したのは、彼が継父の立場にあったことが重要な意味を持っていたのです。
 では、イスラエルの民は、モーセ殺害に対して悔恨に基づく罪の意識を抱かなかったのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは別の意味において、悔恨に基づく罪の意識を抱くことになりました。それはモーセが、イスラエルの民をエジプトにおける隷属状態から解放してくれた指導者だったからです。民族独立の功労者を殺害したことに、彼らは悔恨に基づく罪の意識を抱いたのです。
 そのため、モーセ殺害に対する罪の意識が蘇ったのは、イスラエル民族がバビロン捕囚によって再び隷属状態に貶められたときでした。エジプトと同様の状況に陥ったとき、彼らの脳裏にはモーセ殺害に対する悔恨と共に、モーセの再来を望む願望が湧き上がりました。
 このように、継父であるモーセの神、つまり後のユダヤ教の神ヤハウェに対して、人々は実父に対して抱くような愛し敬う感情を欠いていました。それどころか、神を敵視し、憎むことすら起こしかねませんでした。イスラエル民族が、何度も神の教えに背いたのはそのためでした。しかし、民族の存亡の危機に迫られたイスラエル民族は、何としてでもヤハウェへの信仰を守らねばならなくなりました。そのためユダヤ教成立後は、律法を遵守することを重視し、選民思想を掲げることによって神との契約関係を作り上げました。この意味において、ユダヤ民族と神との関係は、愛し敬う感情を充分に育むことなく成立したと言えるでしょう。

 

エスの改革の意味するもの

 こうした特徴を持つユダヤ教を、愛の教えによって改革しようとしたのがイエスでした。フロイトはイエス個人についてはほとんど語っていませんが、フロイトが紡ぎ出した物語を念頭に置けば、イエスの改革の意味は以下のように捉えられると考えられます。

 新約聖書1)の中に、「最も重要な掟」として記されている箇所があります。この教えが、キリスト教の中心に位置する教義であると考えられます。
 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねる律法学者に対して、イエスは次のように答えています。

 

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(『マルコによる福音書』12・29-31)

 

 ここに示された二つの掟を、順にみて行くことにしましょう。
 第一の掟は、旧約聖書の『申命記』(6・4-5)に記されています。イエスは、この掟を用いて何を訴えたかったのでしょうか。
 ユダヤ教において神は、畏れ、敬う対象でした。神は全知、全能の力を持って天地を無から創造した存在であり、さらに掟を守らぬイスラエルの民に対して、怒り、嫉妬し、民族の殲滅さえ断行しかねない面を有していました。そこでユダヤ教には、神と人との関係を破綻させないために、神を愛するように命じる掟が存在していました。イエスは、特にこの掟に注目し、すべての掟の中で最も重要な掟として人々の前に指し示しました。そして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神である主を愛しなさい」と改めて人々に命じたのです。
 なぜイエスがこの掟を最も重要な掟として取り上げたかは、これまでの検討からすでに明らかでしょう。ユダヤ教の神は、継父の神でした。そして、その全能の力で人々を迫害しかねない側面を有していました。このような神に対して、人々は憎しみや敵意を抱く可能性がありました。

 つまりユダヤ教は、実父(や実母)の神に対して人々が抱くような愛を欠いたまま成立していました。イエスはこの問題を重視したからこそ、第一の掟として神を愛する重要性を人々に説いたのです。

 

神の愛

 一方でイエスは、神が人に示す愛についても語っています。そのことによって、神は新たな姿となって人々の前に現れることになりました。怒りによって人々を罰するかつての神の姿は背後に退き、愛によって人を律する慈愛に満ちた神の姿が誕生しました。その目的は、神と人との関係を、愛し愛される関係として劇的に変化させるためであったと考えられます。
 では、イエスが、神の愛をどのように捉え直したのかをみてみましょう。

 「放蕩息子のたとえ」(『ルカによる福音書』15・11-32)によって、イエスは、神の愛を次のように語っています。


 ある人に二人の息子がいた。父親は二人に財産を分け与えた。弟は、何日もたたないうちに財産を全部金に換えて遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄に遣い果たしてしまった。飢え死にしそうになった弟は、父のもとに帰り、「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言った。父親は息子を憐れに思い、僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」
 これを知った兄は、怒って父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」

 すると、父親は兄にこう言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」


 このたとえ話は、神の愛を象徴的に現しています。イエスは、この話を通じて、神の愛がどのような人に向けられるのかを教えようとしたのです。
 この説話において、父親の愛は放蕩息子である弟に向けられています。それは、弟が放蕩息子だったからではありません。弟が、「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と自分の罪を認め、父親に懺悔しているからです。
 同様に、神に対して自分の罪を認め、懺悔する人に対して、神はその愛を注がれるとイエスは教えるのです。そこには、人は誰においても罪を犯さないことなどあり得ない、というイエスの確固たる認識が存在しています。
 これに対して、「言いつけに一度も背いたことのない」兄はどうでしょうか。この兄は、律法を忠実に守り通す、ユダヤ教ファリサイ派の人々を象徴的に現しているのでしょう。イエスは、律法を忠実に守り通すだけの人に、神が愛を注がれることはないと教えます。それは、この兄が自分を正しいと主張しているように、人が自らの義を主張することを神が悦ばないからです。

 

ヨブ記』における神

 兄の生き方と主張は、旧約聖書2)の『ヨブ記』において、ヨブが神に対してとった態度と同じものでした。

 ここで少し、『ヨブ記』について触れておきましょう。

 

 ヨブは、「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と神自身が認めるほど信仰に厚い人でした。「利益もないのに神を敬うでしょうか」というサタンの謂われなき告発にのって、神はヨブの正しさを試しました。その結果、ヨブは財産も子どもたちもすべて失い、さらに体中がひどい皮膚病になり、友も見分けられないほどの姿になってしまったのです(この時代には、重い皮膚病を患った者は「汚れた者」と見なされ、隔離の対象とされました)。
 彼は激しい苦痛にのたうち回り、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と嘆きました。三人の友がヨブのもとを訪れ、彼を慰めようとします。彼らは、隠している罪を告白して神に赦しを求めるようヨブを説得します。そうすれば、あなたは救われるであろう、と。しかし、ヨブはあくまでも自分は罪を犯していない、自分は潔白だと主張しました。ヨブと三人の友の議論は、こうして平行線に終わります。そして、遂にヨブは、「どうか、わたしの言うことを聞いてください」、「全能者よ、答えてください」と直接神に語りかけたのです。
 神は、嵐の中からヨブに言いました。しかし、その内容にヨブの問いかけに対する答えはなく、逆にヨブに答えを求めるものでした。神は、天地を創造したのは誰か、自然の摂理と生物の生態をお前はすべて知っているのかとたたみかけるように問い、「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」とヨブを叱責します。ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」と答え、神の驚くべき御業をあげつらったことを悔い改めるのでした。

 

 この物語においては、神の教えを遵守すれば救済されるという教義は意味を成しません。なぜなら、ヨブこそ、神の教えを誰よりも忠実に履行してきた者だからです。そのヨブが、サタンの告発というまったく不当な理由によって、これ以上ないほどの不幸な境遇に貶められることになりました。しかも、ヨブを苦しめたもう一人の当事者は、他ならぬ神自身だったのです。
 ヨブが、直接神に救いを求めたくなる気持ちも理解できるでしょう。しかし、神はヨブの問いかけには答えようとせず、自らの全能、絶対性を主張します。そして、神に問いかけたヨブの行為を叱責するのでした。

 神は、なんと理不尽な存在なのでしょうか。このような神を、人は信仰することなどできるのでしょうか。それでもヨブは、神に反論することすらできませんでした。ヨブは、神の絶対性を認め、自らの行いを否定するしかなかったのです。

 さて、このような理不尽極まりない神を、人はどのように感じるでしょう。そして、正しい行いを貫き、しかもこれ以上ない不幸に貶められたヨブは、神に対してどう思ったでしょうか。彼は言いようのない怒りを感じ、どこまでも神を恨んだのではないでしょうか。
 もちろん、聖書にこのような記述はありません。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言う妻に対して、ヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と答えています。ヨブは、自らの運命をただ嘆いただけでした。
 しかし、通常の人間であれば、このような神の行いに対して怒りや恨みといった感情が生じないはずはありません。それが意識されないとすれば、対象である神が全能、絶対の存在であるからに他なりません。絶対の神に、怒りや恨み、そして敵意を抱くことなど、想像することすら許されないからです。
 神がその全能性を高めるにつれ、ユダヤ民族にはこうした神への敵意が生じたでしょう。神の全能性が究極の域に達すると、神の意思は人々の行いに左右されなくなります。神は全能、絶対の力をもって、ユダヤ民族を迫害するかも知れません。そのため、神を一心に信仰すれば救済を得られるという教義には、次第に疑いの目が向けられるようになりました。『ヨブ記』の物語は、この問題を提起しているのです。

 

エスの答え

 兄の生き方と主張は、『ヨブ記』においてヨブが神に対してとった態度と同じものでした。ヨブもまた、神の教えを忠実に守り、悪を成さずに正しく生きた人でした。そして、自身の潔白を主張し、自らの罪を決して認めませんでした。このような態度を貫いたヨブに対して、神は反論を許さず、叱責を行うだけでした。ヨブが、神の驚くべき御業をあげつらったことを悔い改めたことで、神はようやくヨブを赦したのです。
 つまり、「放蕩息子のたとえ」は、『ヨブ記』において人々が感じた絶望的な不安に対して、イエスが答えを与えたものだと考えることができます。全知、全能は、神にこそ認められる。人間は決して、全知、全能ではあり得ない。したがって、人は神の教えをそのままに生きることなどできない。だからこそ、人は自らが犯してしまう罪を認め、その罪を率直に神に懺悔しなければならない。そして、そのように生きられる人こそが、神の愛を得ることができるとイエスは教えたのです。神が全能性を高めて行く際に生じる問題点を、イエスはこのようにして解決したのだと考えられます。

 神の全能性に目を向けすぎると、どうしても神に対して恐怖感や敵意を抱きやすくなります。そこでイエスは、神の全能性から相対的に導かれる、人の無能性に焦点を当てました。このことによって、人は神の教え通りは生きられない、罪を背負った存在であるという認識が生まれました。そして、人は自分の罪を認め、神に身を委ねることによって救われるという新たな救済の方法が、イエスによって導き出されたのです。

(続く)

 

 

文献

1)「新共同訳 新約聖書」.日本聖書協会,東京,2002.

2)「新共同訳 旧約聖書」.日本聖書協会,東京,2001.