ユダヤ人はなぜ虐殺されたのか(1)

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 これまでのブログでたびたび登場してきた『モーセ一神教』には、驚くべき内容がたくさん記されています。しかし、フロイトの「夢判断」や「性欲論」に比べて、この最晩年の著作は広く知られているとは言い難いでしょう。これは実に残念でもったいないことです。なぜなら、『モーセ一神教』に記されたことは、精神分析を新たな地平に導くための大胆な試論であり、その内容が現在と未来の社会を読み解くための道しるべになり得るからです。これからも折に触れて、フロイト最晩年の労作を紹介していきたいと思います。

 今回は、ユダヤ人であったフロイトが、ナチスのよるユダヤ人虐殺がなぜ引き起こされたと考えていたかを紐解いてみましょう。

 

ナチスからの迫害中に記された著作

 フロイトが『モーセ一神教』を著した目的の一つは、ユダヤ人であったフロイトが、ユダヤ教は歴史的な正当性に立脚した宗教であると表明することにあったのではないかと考えられます。
 当時のヨーロッパには、ナチス・ドイツによって迫害され、貶められていたユダヤ民族の悲愴な状況が存在していました。フロイトは『モーセ一神教』を、ナチ党が政権の座についた翌年に当たる1934年頃から書き始め、ロンドンに亡命した後の1938年以降にその主要部分を発表しています。これは偶然ではなく、フロイトがナチ党の台頭によって改めてユダヤ教を見つめ直し、最後の力を振り絞りながらユダヤ人の存在価値を主張したことの現れであったと思われます。

 しかし、こうした目的があったにもかかわらず、フロイトナチスを一方的に責めるようなことはしませんでした。それどころか、ユダヤ民族が迫害される原因を、まるで第三者のような視線から分析してみせるのです。

 

ヒトラーという独裁者の台頭
 20世紀のドイツには、アドルフ・ヒトラーという独裁者が誕生しました。ヒトラー全体主義の代表的な指導者ですが、その最も際だつ特徴は、彼の主張した民族主義政策と、それをもとに断行されたユダヤ人の大量虐殺にありまた。ヒトラーは、なぜこのような特異な政策を掲げ、そしてユダヤ人絶滅を目指す暴挙に邁進したのでしょうか。
 ヒトラーが独裁者としての権力を強大にした背景には、第一次世界大戦の戦争責任を一方的に科されたドイツ国民の屈辱感と、世界恐慌の影響によって600万人もの失業者を生んだドイツ経済の混乱がありました。ヒトラーは、ワイマール憲法を廃止して総統に就任すると、経済の立て直しとヴェルサイユ体制の破壊へと突き進みました。
 ヒトラーは1933年に政権を握ると、アウトバーン建設、ベルリンなどの大都市の改造、住宅や飛行場の建設などの社会事業や、軍需施設の拡大などの積極的な政府設備投資策を次々と打ち出しました。その結果、景気は急速に回復して失業者が減少し、恐慌の後遺症に悩む世界各国とは対照的に、1937~38年にはドイツほぼ完全雇用状態に達したのです。
 ヒトラーが登場したころの資本主義社会の経済学では、まだ古典学派(正統学派)が主流を占めていました。アダム・スミスに始まる古典学派は、自由放任説を主張していました。自由放任説では、個人による利己的な経済活動が自由市場で行われれば、その意図せざる結果として社会公共の利益が有効に増進される、つまり最大多数の最大幸福が達成されると考えられていました。
 この自由市場が発揮する魔法のような効力は、「神の見えざる手」によってなされると表現されました。古典学派では、労働市場も同様に考えられていました。労働力が自由市場にかけられれば、適正な賃金率によって雇用が決定し、失業者は生じないはずでした。ところが、現実には大恐慌によって、巷間に失業者が溢れていました。社会公共の利益は失われ、大多数の者は不幸な状況に陥っていました。自由市場からは、まさに「神の見えざる手」は失われていたのでした。
 こうした社会状況において、ヒトラーは最悪の経済状態を短期間で回復させ、失業者をなくし、限られた期間であったにせよ最大多数の最大幸福を実現しました。この出来事は、当時の経済学の常識を完全に覆すものでした。ヒトラーは、当時のヨーロッパの政治家が誰もできなかったことを、実際に人々の前に現出させたのです。そのため当時に生きる人々の目には、ヒトラーによって、「神の見えざる手」が復活したように映ったのではないでしょうか。
 一方、国際連盟を脱退したヒトラーは、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄して再軍備を行い、1936年にラインラントへの侵攻を開始しました。1938年にはオーストリアを併合し、チェコスロバキアのズデーデン地方を占領しました。さらに、翌年にチェコスロバキアを併合すると、リトアニアのドイツ人居住地域であるメーメル地方にも侵攻しました。ヒトラーは、相次ぐ領土の拡大によって、長く失われていた「大ドイツの構想」という夢を、民衆の前に実現して見せたのでした。
 こうしてヒトラーは、庶民の生活を向上させただけなく、打ちひしがれたドイツ国民の自尊心を回復させることにも成功しました。そして、民衆の圧倒的な支持を集め、絶大な権力を勝ち得ていったのです。
 無論、ヒトラーが絶対権力者と成り得たのは、政治・経済政策の成果だけによるものではありません。近代に誕生した独裁者が皆そうであったように、自らの立場を危うくする者の徹底的な粛正を行うことによって、ヒトラーは絶対的な権力を不動のものとしました。国民革命をともに遂行した同志レームを始めとして、ヒトラーが裁判を行わずに親衛隊に殺害させた者の数は100名近くに上りました。邪魔者や反対派を排除することによっても、ヒトラーは独裁者としての地位を確固たるものとしたのです。
 さらに、ヒトラーが独裁者となり得たのには、見逃してはならない重要な要因がありました。それが、ヒトラー民族主義政策です。

 

ヒトラーと反ユダヤ思想

 ヒトラーは、政治活動を始めた30歳の頃から、反ユダヤ主義とドイツ民族の純血を一貫して唱え続けました。彼は、戦後ドイツの抱える問題の矛先を、ユダヤ人や共産主義者に向けました。ヒトラー共産主義者ユダヤ人と同様に排斥しようとしたのは、共産主義の背後にあるユダヤ教の存在を嗅ぎとっていたからでしょう。彼は、マルクス主義は文化を破壊するユダヤ的教説であり、ユダヤ人がマルクス主義の助けを借りて世界の諸民族を征服しようとしていると考えていました。

 そして、ドイツを再生させるためには社会と文化を刷新させることが必要だとし、そのためにはユダヤ人を中心とした非アーリア人を排除して、ドイツ民族を生物学的に浄化する必要があると訴えました。
 ヒトラーが訴える民族主義のスローガンは、思想的には荒唐無稽な内容でしたが、一方では単純で分かりやすく、人々の心に訴えかける強い魅力を持っていました。経済恐慌によって激化していた反ユダヤ人感情とも相俟って、ヒトラーの主張は社会階級を越えて浸透していきました。ヒトラーが掲げた反ユダヤ主義の主張が、ナチ党の党勢拡大にいかに貢献したかは計り知れないものがあります。
 ナチ党政権が誕生すると、ヒトラーは公然とユダヤ人の迫害を開始しました。1935年にニュルンベルク法が施行されると、ユダヤ人はドイツ人との結婚・性的交渉を禁止され、公民権を奪われて二級国民の地位に落とされました。さらに、経済活動からも排除され、その資産を二束三文でドイツ人に引き渡すことを余儀なくされました。
 1938年の「水晶の夜」事件では、ユダヤ人の反ドイツ的態度を口実に、ドイツ全土でシナゴーグユダヤ教の会堂)やユダヤ人の商店、住居が突撃隊によって破壊されました。そして、2万5千人ものユダヤ人が強制収容所へ拘引され、虐待や拷問によって多くの者が殺害されました。こうした政策のもと、多数のユダヤ人が国外へ逃亡しましたが、資産のない者や高齢者は、大都市に設けられた強制収容所に収容されることになったのです。
 1939年に第二次世界大戦が始まると、ヒトラー民族主義政策は、ユダヤ人のドイツ領内からの排除から、ユダヤ民族の絶滅へと転換されました。ナチ党は、戦争を遂行する一方で、ヨーロッパからユダヤ人を組織的に一掃するという「ユダヤ人問題の最終解決」を実行に移しました。
 アウシュビッツに代表される、ユダヤ人絶滅を目的とした強制収容所に連行されたユダヤ人は、重労働を強いられたり、医学的実験の被験者にされたり、ガス室に送られたりして殺害されました。ヨーロッパ東部や南東部では、捕らえられたその場で銃殺された者も数多くいました。こうしたナチ党の政策によって殺害されたユダヤ人の数は、およそ500万人から600万人に上ると推定されています。
 この暴挙によって、ポーランドユダヤ人はほぼ一掃され、オランダ系ユダヤ人もかなりの割合で命を奪われることになりました。ユダヤ人の絶滅へと向けられたナチ党による組織的虐殺は、ヒトラーが自殺してドイツが降伏するまで続けられたのです。

 

ヨーロッパにおける反ユダヤ思想の源流
 ヒトラーによって極められた反ユダヤ思想は、どのようにして形成されたのでしょうか。そして、ユダヤ民族はなぜ、かくも残酷な迫害を受け続けなければならなかったのでしょうか。
 反ユダヤ思想を宗教的側面から語るうえで、欠くことのできない人物が、意外にもドイツの宗教改革者、マルティン・ルターです。

 大澤武男氏は、『ユダヤ人とドイツ』1)という著書の中で、ナチ政権の反ユダヤ政策に通じる大半のプログラムが、晩年のルターが著した『ユダヤ人と彼らの虚偽について』という書の中に見出すことができると指摘しています。
 宗教改革の端緒を開いたルターは、当初ユダヤ人をキリスト教に改宗させ、彼らの社会的地位を改善すべきことを主張する一方で、在来のユダヤ人憎悪を力強く批判していました。しかし、この試みは効を奏さず、失望したルターは後年ユダヤ人に対する態度を一変させ、彼らに対する憎悪をむき出しにして激しいユダヤ人攻撃を行いました。そして、1543年に著した『ユダヤ人と彼らの虚偽について』の中で、ドイツ諸侯に対して反ユダヤ的な以下の提案をしたのです。

 

 1.ユダヤ人のシナゴーグや学校を完全かつ永久に破壊すべきこと、そして主キリストを讃え、我々がキリスト教徒であることを示すため、この処置を実行すべきこと。
 2.ユダヤ人の家を打ちこわし、ジプシーのように彼等を一つのバラックが馬小屋のようなところへ集め、一緒に住まわせるべきこと。
 3.彼等から全ての書物や律法書等を取り上げるべきこと。
 4.ユダヤ教の祭司、ラビの活動を禁止すべきこと。
 5.ユダヤ人の護送や安全な交通に関する保護を取り消すべきこと。
 6.ユダヤ人に対し高利貸しを禁じ、彼等の全ての金、銀、財貨を奪い、別に保管すべきこと。
 7.若いユダヤ人男女には斧やつるはし、シャベル、押し車などを与え、額に汗して日々の糧を稼がせるべきこと。

 

 ルターによるこれらの発言、すなわちシナゴーグユダヤ教の会堂)の破壊、ユダヤ人の住居や財産の没収、集団強制居住、人権の剥奪、強制労働等に、ナチ政権が実行した反ユダヤ政策の大半が認められるのです(以上、『ユダヤ人とドイツ』55-59頁)。
 教会の腐敗を嘆じ、専ら聖書に立ち返ることでキリスト教を本来の精神に帰そうとしたルターが、同時に反ユダヤ思想を主張していたことは興味深い事実です。
 ところで、キリスト教宗教改革と反ユダヤ思想という一見関連性のないこの二つの概念は、実は根底において命脈を通じています。だからこそ、純粋に宗教改革を遂行して賞賛されたルターが、一方では現在からは批判の的となっている反ユダヤ主義の主張をも行ったのです。

 では、この二つを繋ぐものとは何でしょうか。それを解明するために、次回のブログで再びフロイト精神分析理論を紐解いてみましょう。(続く)

 

 

文献

1)大澤武男:ユダヤ人とドイツ.講談社現代新書,東京,1991.