死の本能は存在するのか(3)

 

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 前回までのブログで、人が戦争や自殺を引き起こす心理的な機序を、死の本能に拠ることなく検討してきました。そして、戦争や自殺は、死の本能という概念を用いなくても説明することが可能でした。では、フロイトが唱えた死の本能(欲動)は存在しないのでしょうか。

  

死の本能と文化

 フロイトは、死の本能に人間の攻撃性の源泉を求めるだけでなく、死の本能と文化の発展との関係についても言及しています。

 

 「攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動から出たもので、かつその主要代表者である。(中略)ここまでくれば、文化の発展の持つ意味はすでに明らかと言ってよいだろう。文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動のあいだの戦いなのだ」(『文化への不満』1)477頁)

 

 文化にとって最大の障害である攻撃欲動は、すべての生命に内在する死の欲動(本能)から出発しているのであり、文化の発展は、生の欲動と死の欲動の戦いによってもたらされるとフロイトは考えました。
 このようにフロイトは、戦争が起こる必然性も、文化に対する人間の敵意も、そしてこれらを引き起こす人間の攻撃性もすべて、死の本能(欲動)にその原因を求めています。この時点までのフロイトの人間理解は、本能論に立脚した自然科学者としての立場からなされていたのでした。

 

本能論からの決別
 しかし、フロイトの探求への情熱は、そこに留まることを良しとしませんでした。最晩年に至ってフロイトは、ついに長年にわたる自らの研究を否定しかねない新たな見解を提示したのです。それは、1939年に発表された『モーセ一神教2)の中に表明されています。
 ユダヤ民族の起源をモーセという一人の男に求めるという、大胆な試論を行ったこの著作の中で、フロイトは次のように言及しています。

 

 「伝承に関する心理学的事態にあっては、個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧であって、集団のなかにおいても過ぎ去った出来事の印象は無意識的な記憶痕跡のなかに保存され続けているのだ、と私は考えている」(『モーセ一神教』142頁)

 

 ここでいう「無意識的な記憶痕跡」とは、抑圧されることによっていったん忘却された記憶です。つまり、集団においても無意識へと抑圧されたものは消滅するのではなく、個人の場合と同様に、集団の無意識の中に残存し続けるのです。フロイトは、「先祖によって体験された事柄に関する記憶痕跡の遺伝という事態は、直接的な伝達や実例による教育の影響がなくても、疑問の余地なく起こっている」(同150頁)とも述べて、直接的な情報伝達や教育の影響によらない無意識的な記憶痕跡が、集団の中で遺伝すると指摘しています。
 さらに、フロイトは次のように続けます。

 

 「範囲と内容は別ものであっても、動物の本能に対応するのが人間に固有の太古の遺産なのだ」(『モーセ一神教』151頁)

 

 控えめに述べられた、この一文の意味するところは途方もなく重要です。この文で指摘されている重大な意味を、われわれは看過することなく理解しなければなりません。
確かにフロイトはこの文の直前で、本能が過去の経験を内部に保持してきたものという意味では、動物と人間の本能は根本的には別のものではないと言っています。
 しかし、根本的には別ではないとしながらも、人間と動物の本能が、上述のように「範囲と内容が別もの」であると指摘している点に注目すべきであるとわたしは考えます。生の本能と死の本能の存在を主張してきたフロイトは、まさにこの時点において、一つの趣旨替えを行ったのです。生物すべてに共通する本能の存在を探求してきたフロイトは、ここで初めて動物の本能と人間の「本能」に小さな(しかし、非常に重要な)区別を与えました。
 動物の本能に相当する人間の「本能」とは、無意識の中に過去から伝承されてきた「人間に固有の太古の遺産」に他なりません。この言葉は、フロイトの、そして精神分析学の、生物学に対する決別への分岐点であると理解することができます。人間は動物のような本能によって生きるのではなく、「人間に固有の太古の遺産」、つまりその集団に伝承されてきた「無意識の記憶痕跡」によって生きる指針を与えられているのです。
 では、「無意識的な記憶痕跡」は、なぜ人々の無意識の中に存在し続けるのでしょうか。その理由を、フロイトは次のように述べています。

 

 「直接的伝達は外部からやってくるすべての他の情報と同じように傾聴されたり判断されたり、場合によっては拒絶されたりするだろうが、論理的思考という拘束からの解放という特権的な力を獲得したためしは一度としてなかった。伝承とは、回帰してくるにあたって集団を呪縛してしまうほど強力な現実的影響力を発揮する前に、必ず一度はまず抑圧される運命に服さなければならず、無意識のなかに滞留している状態を耐え抜いてこなければならないものなのである」(『モーセ一神教』153頁)

 

 言葉や理論による直接的な伝達は、論理的、意識的であるがゆえに、傾聴され、理解される反面、場合によっては変更されたり拒絶されたりする運命をたどります。しかし、抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに、論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されます。こうした伝承こそ、集団や民族、そこに属する個人の特質を形成する重要な要素になります。
 そして、フロイトは、ユダヤ人の起源をモーセという一人の男の存在に帰します。

 

 ユダヤ人を創造したのはモーセというひとりの男であった、と敢えて言ってもよかろうと思う。ユダヤ民族は、その強靭な生命力を、また同時に、昔から身に受けいまもなお身に受けつづけている周囲の敵愾心のほとんどすべてを、モーセという男から受けとったのだ」(『モーセ一神教』159頁)

 

 フロイトはこうして、ユダヤ民族の特質をモーセにまで遡って解明したのでした。
 以上のようにフロイトは、最晩年の著作によって「人間に固有の太古の遺産」、つまり集団や民族に伝承されてきた「無意識の記憶痕跡」によって人々が生きる指針を与えられているという新たな視点を示しました。しかし、この新たな視点と死の本能の関係を語ることなく、フロイトはこの世を去りました。そうであれば、われわれは人間の攻撃欲動を、死の本能論以外の観点からもう一度検討し直す必要があるのではないでしょうか。

 

死の本能は存在するのか
 では、フロイトが探求してやまなかった死の本能は、人間および生物に存在しているのでしょうか。
 フロイトは、「本能とは、以前のある状態を回復しようとするもの」であると仮定します。このように仮定した場合、生物は無機物から派生したのですから、「無生物に還ろうとするのが最初の本能だった」ということになります。つまり、「無生物に還る」とは生物が死ぬことであり、最初のこの本能こそが死の本能であるとフロイトは考えたのです。そしてフロイトは、「あらゆる生物は内的な原因から死なねばならぬ」という前提をもとに死の本能論を発展させたのでした。
 生物が死んで無機物に還るのは、本当に内的な原因からなのでしょうか。生物の死には、本能が影響を与えているのでしょうか。近年の遺伝子科学の発達によって、細胞の老化現象に重要な役割を担うテロメア(真核生物の染色体の末端部分にある構造で、その短縮が細胞老化の十分条件であると考えられている)が発見されたり、逆にその活性化により生物の寿命が延びるとされるサーチュイン遺伝子が発見されたりしました。これらの発見は今後、生物の老化や死が内的な原因から引き起こされるというフロイトの説を支持することに繋がる可能性があります。
 しかし、生物の死が内的な原因から、つまり本能によって引き起こされると考えることには重要な疑問点が生じます。それは、本能によって死がもたらされるなら、いったい何のために本能は生物に死をもたらすのかという疑問です。すべての生物は、個体の生存と種の存続に全霊を傾けています。内的な原因で生物に死がもたらされるとすれば、種の存続にとってこれほど不利なことはありません。もし死の本能が存在しない生物が存在するとしたら、死の本能を持つ生物はあっという間に駆逐されてしまうでしょう。そのような危険な本能を生物がわざわざ持つとは、どうしても考えられないことです。
 したがって、生物の死の原因を生物の内的な要因にだけ求めるのは、不充分であるように思われます。そこには生物の外部からの要因、それは外敵などの他の生物だけでなく、外界の環境全般から受ける影響を考慮にいれる必要があります。その外界の環境要因が、物理学でいう「エントロピーの法則」です。

 

死の本能とエントロピーの法則
 エントロピーの法則は、「すべての科学にとって第一の法則である」と言われるように、現代物理学が絶対的な真理と認める唯一の法則です。その内容は、「物質とエネルギーは一つの方向のみに、すなわち使用可能なものから使用不能なものへ、あるいは利用可能なものから利用不可能なものへ、あるいはまた、秩序化されたものから無秩序化されたものへと変化する」と定義され、要するに宇宙のすべては体系と価値から始まり、絶えず混沌と荒廃に向かうことを現しています。宇宙に存在するものはすべて、(宇宙が膨張している限り?)この法則からの影響を免れることはできません。
 地球上のすべての生物も当然エントロピーの法則に従っているのであり、すべての生物はこの法則に則って生から死へと向かわざるを得ないのです。避けることのできないこの現実を、生物に内在している法則として捉えたものが、フロイトのいう死の本能ではないでしょうか。そして、エントロピーの法則に逆らおうとする儚い抵抗が、生の本能であると考えられるのです。
 しかし、人間という存在を理解するために、この宇宙の大原則を当てはめるのは適切ではありません。なぜなら、人間の場合は、生の本能だけでなく死の本能までが文化によって歪められてしまっているからです。さらに、エントロピーの法則に反逆し、この法則を無効にしようとしてあらゆる無謀な試みを行っている存在こそが、人間だと言えるからです。
 ちなみに、人間という存在を理解するために、「死の欲動」という概念を使用することは有益であると思われます。動物に比して人間には、自傷行為や自殺企図が数多く認められます。それは、人間には自らを死へと向かわせる欲動が存在するからです。ただし、これまでに検討してきたように、その欲動はフロイトが当初目指していたような生物学的な本能論に立脚するものではありません。フロイトが別に述べたような、「文化への不満」に端を発し、本能から歪められた人間に固有の欲動であると考えられるのです。(了)

 

 

文献

 1)フロイト,S.(浜川祥枝 訳):文化への不満.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.
2)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.