死の本能は存在するのか(2)

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 前回のブログでは、フロイトが死の本能を提唱するに至った経緯と、死の本能が戦争を引き起こす心理的な機序を、フロイトに従って述べてきました。戦争は本当に、死の本能によって引き起こされるのでしょうか。

 

文化によって引き起こされる戦争

 わたしは、戦争は死の本能(または死の欲動)によって引き起こされるのではなく、文化によって引き起こされると考えています。その内容は先に、「人はなぜ戦争をするのか」というブログで検討しました。詳細はそこを参照していただくこととして、ここではその要点だけを述べておきましょう。

 人類は文化を創造することによって、生存を有利にし、世界中で繁栄を謳歌してきました。それが可能であったのは、文化とは自然の摂理から離反することによって生じた、独自の適応方法・行動様式だからです。他の種が自然に従って生きている中で、人類だけが自然に逆らい、独自の適応方法で行動できたからこそ、他の種よりも有利に生を営むことが可能になったのです。

 しかしながら、文化は人類に利点ばかりをもたらしたわけではありませんでした。文化には人類にとってマイナスの要因も持ち合わせていました。

 文化が発達するに従い、人々は自然環境に働きかけて人工の環境を創り、この環境の中で独自の生活様式や習慣を持って生きるようになりました。文化の発達は人工の生活環境を創造することへと進展し、それは人々の生活を自然環境から遠ざけることに繋がりました。このように文化によって人工の環境が創られ、人々が人工の環境の中で生きるようになると、環境と本能の満足との間にズレが生じ、環境と本能の役割が一致しなくなるという問題が生じることになりました。
 人間の本能は本来、自然環境の中でサルの一種として生きて行くように設定されていたはずです。しかし、文化を持った人間は、それ以降生物的な進化ではなく、文化によって生き延びる道を選択しました。文化によって創られた人工の環境は、自然環境とは異なっています。文化が発達すればするほど、この違いは大きくなります。すると人間の本能は、人工の環境の中でますます役立たなくなっていったのです。
 その結果、文化で創られた人工の環境の中で、人間は本能に従って生きることができなくなりました。そのため人間は、本能に代わる生きる指針を新たに創り出さねばなりませんでした。それが、文化によって定められたその文化に固有の「掟」でした。

 一方で、人間が文化の掟に従って生きるようになると、人間の本能は役割を果たさなくなっただけでなく、満足を得る対象を失うことになりました。対象を失った本能は、際限のない欲求を求め続けることになりました。そこで文化は、この欲動を断念させなければならなくなりました。

 欲動に際限がなくなったのは、文化によって創られた人工の環境で生活するようになり、人間の本能がその役割を失ったためでした。そして、文化が発達すればするほど生活空間はますます人工化し、文化の掟はより複雑になって本能的な生き方から遠ざかるようになりました。つまり、文化が発達するほど人間の本能は役に立たなくなり、本来の目的を喪失するのです。
 その結果、本能の名残である多様な欲動は、ますます方向性を見失い、満足を得るための対象を探し出すことが困難になりました。そして、対象を見失った欲動は常に束の間の満足しか得られず、さらに新たな満足を求めて際限のない追求を始めました。こうして、文化が発達するほど欲動には際限がなくなり、欲動は強大になりました。欲動が強大になると、文化は欲動の断念にさらに注意を払わねばならなくなるのでした。
 ここに、文化と欲動における根源的な矛盾が存在しています。もし文化の発達が人間の欲動を強大にするなら、文化はその秩序を維持するために強大になった多様な欲動を断念させなければなりません。すると、欲動を断念させられた人間の文化への敵意は増強します。結果的に文化の発達は、人間の攻撃欲動をより増大させることになります。

 この強大になった攻撃欲動が他の社会や文化に向けられたものが、戦争だと考えられるのです。

 

死の本能と自殺
 一方、攻撃欲動が個人に向けられた場合はどうなるでしょうか。この場合は、攻撃欲動が自分自身に向けられ、自罰的な行為となって現れます。この機序は、『快感原則の彼岸』で死の本能論を唱える以前のフロイトの見解、すなわちサディズムの衝動が自分自身に反転した結果起こるのです。
 フロイトは死の本能論によって、マゾヒズムこそが一次的なものだと捉えました。現代日本社会に多発する自傷行為や自殺企図を目の当たりにするとき、フロイトの唱えた死の本能が、人間には存在するのだと思わずにはいられないかも知れません。しかし、自傷や自殺を直ちに死の本能に結びつけるのは、やや早計な判断であると言えるでしょう。なぜなら、本能とは人間だけでなく、すべての生物に存在するものだからです。
 フロイトは、死の本能がすべての生物にあるものだと仮定しています。もしそうなら、死の本能を持つすべての生物に自傷や自殺に類する行為が認められるはずです。ところが生物には、自然の状態で自らを傷つける行為は認められません。さらに、生物の自殺はほとんど皆無と言ってもいいでしょう。
 もっとも動物には、一見して自殺のように見える行為が認められることがあります。たとえば、北極近郊に生息するレミング(和名タビネズミ)は、集団自殺をする動物として知られていました。しかし、これはレミングが集団移住をする際に、一部の個体が海に落ちて死ぬ現象が誤解され、誤った伝承として広まったことのようです。そもそもこうした動物の自死現象が、単なる事故なのか、あるいは他の個体を守るためなのか、それとも自殺なのかを厳密に区別することはできません。ただ、動物の場合でも、明確な意志と目的を持って自らの命を断つ行為は、確認されていないのではないでしょうか。

 

人間に固有にみられる攻撃欲動
 このように自傷行為や自殺企図は、人間に特有な行為だと捉えられます。この特有な行為の起源を探るためには、人間に固有にみられる現象に注目すべきでしょう。その固有の現象こそ、人間にだけ認められる文化と、文化に対する敵意です。そして、この文化に対する敵意から、人間の攻撃欲動が生じているのです。
 では、本来は文化に向けられるべき攻撃欲動が、反転して自分自身に向けられるのはなぜでしょう。ここに、自傷や自殺が生じる原因を探る、一つの鍵があるのではないかと思われます。
 文化に向けられるべき攻撃欲動が自分自身に向けられるとき、当人の心の中では、「自分が悪い」とか「自分がダメだ」という思いが存在しています。だからこそ、「悪い自分」や「ダメな自分」に攻撃が向くのです。この現象は、実際には自分が悪くなくても、ダメではなくても起こります。むしろ自分の側には問題がない場合や、相対的には自分以外の問題の方が大きい場合が多いかも知れません。それでも攻撃欲動は、自分自身に向かいます。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。

 

攻撃欲動が自分自身に向かうのは
 その起源は、原抑圧の時期にまで遡ります。抑圧は、幼少期に最初に成立する原抑圧と、その後に無意識の内容が意識に侵入することを防ぐ後抑圧に分けられます。ここで重要なのは、原抑圧の方です。原抑圧は、外部から様々なルールや決まりを強制され、欲望の発現を禁止されることによって成立します。人はこの抑圧を受け入れる代わりに、社会の掟を受け入れて自我を構築し、やがて社会的存在になることができます。一方、抑圧されたものは無意識へと追いやられ、以後直接意識に戻ってくることはありません。
 この原抑圧が成立して行く過程で、ルールや決まりを受け入れられなかった場合や、欲望を自由に発現してしまった際に、親(やその代替者)から叱責を受けます。この叱責を受ける状況から、「悪い自分」や「ダメな自分」の萌芽が生まれます。ここで子どもが叱責を受けるのは、原抑圧が行われる際の基本的なスタンスとして、社会や文化の方が常に正しいとされているからです。
 もちろん、文化の掟を受け入れ、社会的な存在となって社会に参加するためには、文化や社会が正しいという大前提が必要になるでしょう。しかし、そのことを余りに強調し、ルールや決まりを守れないのは「悪い人間」や「ダメな人間」だと必要以上に繰り返して叱責すれば、「悪い自分」や「ダメな自分」の萌芽は、やがて個人の人格の中核を占めるほどに成長してしまうでしょう。また、親(やその代替者)が自己の正当性を無理に主張しようとして、子どもに必要以上のしつけを強要した場合も、同様の結果をもたらすことになるでしょう(これは、養育に自信がないときに起こりやすい現象です)。
 こうして形成された「悪い自分」や「ダメな自分」に対して、やがて自らの攻撃性が向けられることになります。親(やその代替者)が攻撃していた「悪い自分」や「ダメな自分」を、今度は自分自身が攻撃するようになります。それは、悪いのは自分の方だ、ダメになったのは自分の責任であると、常々教え込まれ続けてきたためです。この反応は、条件反射に近いものになっているとすら言えるでしょう。
 一方では、このような教育を受けてきた人たちは、社会や文化のルールや決まりを頑なに守ろうとし、また社会や文化のルールに対して過剰に適応しようとします。なぜなら、少しでも適応できなければ、自らが「悪い自分」や「ダメな自分」になってしまうからです。
 しかし、社会や文化のルールや決まりは、そもそも欲動や欲望を抑圧するために作られたものです。ルールや決まりを遵守しようとすれば、他方では文化に対する敵意が蓄積されて行きます。そして、蓄積された敵意は、攻撃欲動となってその発現の対象を探し求めることになります。その刹那に、蓄積された攻撃性は、本来の対象である社会や文化(または、それを代表する親などの他者)に向かうのではなく、「悪い自分」や「ダメな自分」に向けられるのです。

 

攻撃欲動と自殺
 攻撃欲動はこうして自分自身に向けられることになりますが、それが自傷に留まらずに自殺にまで至ってしまうのはなぜでしょうか。自傷行為は、「悪い自分」や「ダメな自分」を攻撃することによって、自己の尊厳を守ろうとする行為です。つまり、文化の掟に従えない「悪い自分」や「ダメな自分」を攻撃し、「悪い自分」や「ダメな自分」を消滅させることによって、初めて文化の中で価値のある存在として自分自身を認めることができるのです。そこでは「悪い自分」や「ダメな自分」はあくまで自己の一部であり、その一部を攻撃すれば、残された自己の大部分は守られることになります。
 しかし、「悪い自分」や「ダメな自分」の自己イメージが肥大化し、自己のほとんどを占めるようになってしまった場合はどうでしょうか。この場合は、自己の一部を攻撃しても自己の尊厳は守られません。「悪い自分」や「ダメな自分」が、自己そのものになっているからです。「悪い自分」や「ダメな自分」を消滅させることは、すなわち自分自身を消滅させること、つまり自殺にまで至ってしまうことになります。こうして攻撃欲動は自分自身に向けられ、それは「死の欲動」となって人々を自殺へと向かわせるのです。
 自殺へと至る出発点には、苦難に満ちた現世から逃避したいという思いがあるでしょう。しかし、それに加えて、「悪い自分」や「ダメな自分」を消滅させることによって、自己の尊厳を守ろうとする意思の存在も認められると思われます。それが自傷行為の場合と異なるのは、「悪い自分」や「ダメな自分」が自己そのものになっており、それらを消滅させることが死に繋がってしまうことです。それでも、「悪い自分」や「ダメな自分」を消滅させてしまう刹那に、自らは誇りを取り戻し、一瞬の尊厳を得られるのかも知れません。そして、そこには、文化に敵意を抱きながらも文化に殉じ、文化を頑なに守ろうとする悲愴な態度が伴われているのではないでしょうか。

 現在の平和な日本では、攻撃欲動が社会革命や戦争に向けられる機会がありません。一方で、人口当たりの自殺者の数では、日本は世界で指折りの自殺大国になっています。行き場を失った攻撃欲動は、自分自身に向かっているのでしょうか。われわれの社会で自殺者の数が他国に比して多いのは、ある一面の真理を現す現象であると言えるのかも知れません。(続く)