人はなぜ戦争をするのか(2)

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  前回は、生物の進化の途上で文化が誕生し、それが人類の生存や繁栄に多大な恩恵をもたらしてきたという文化の正の側面について検討しました。今回は文化が人類に与える問題点、つまり文化の負の側面について検討したいと思います。

 

文化による欲動の断念

 精神分析を創始したことで有名なフロイトは、1930年に発表した『文化への不満』1)の中で、以下のような指摘を行っています。

 

 「『文化』とは、われわれの生活と動物だったわれわれの祖先の生活とを隔てており、かつ自然にたいして人間を守ることおよび人間相互のあいだの関係を規制することという二つの目的に奉仕している」(『文化への不満』フロイト著作集3巻 452頁)

 

 文化によってわれわれは、動物とは隔てられた生活を送るようになりました。その目的は、自然から人間を守り、人間相互間の関係を規制することにありました。つまり、動物は自然の掟に従って生きるために自然から規制を受けているのですが、人間は文化に従って生きるために、文化から規制を受けるようになったのです。
 そしてフロイトは、規制の内容を次のように説明します。

 

 「文化の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと(抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文化の前提になっていることは看過すべからざる事実である。この『文化のための断念』は人間の社会関係の広大な領域を支配している」(『文化への不満』458頁)

 

 このようにフロイトは、強大な欲動を断念させることが文化の前提だと指摘します。

 この見解に対して、人々の欲動を刺激し、それを経済活動の拡大に繋げようとする資本主義という制度が存在するではないかという反論もあるでしょう。確かに資本主義の社会では、欲動を断念させるどころか、欲動から派生する様々な欲望を刺激して、あらゆる購買意欲を高めるために不断の努力が払われています(この姿勢が、さまざまな依存症を生む源泉にもなっています)。さらに、多くの資本主義社会では自由主義体制が採られ、社会の抑圧や束縛からの解放が目指されています。このように資本主義・自由主義社会では、欲動は断念されるべきものではなく、解放されるべきものであると考えられています。この点が、資本主義や自由主義が21世紀の世界を席巻している大きな要因になっているのでしょう。
 しかし、資本主義は、実際には欲動や欲望を自由に解放できる社会制度だとは言い切れません。たとえば、資本主義社会で欲動や欲望を満足させるためには、貨幣(やそれに替わる手段)が必要になります。そして、この貨幣を得るためには、過剰な労働を行わなければなりません。ここでいう過剰な労働とは、人が生きるために必要とされる労力をはるかに超えた労働のことです。現在の日本では、月に100時間を超える残業やブラック企業の問題が取りざたされています。過剰な労働にに追い詰められてうつ病になったり、自殺を遂げる人の存在が社会問題になっているほどです。

 そして、過剰な労働を行うためには、様々な欲動を断念しなければなりません。結果として資本主義社会では、欲動を満たす傍らで、別の欲動を断念する仕組みになっているのです。満たされる欲動よりも断念する欲動の方が広範にわたっていることは、資本主義社会に生きるわれわれの実感するところではないでしょうか。
 さらに付け加えれば、資本主義社会で貧富の格差が拡大すると、欲望を刺激され続けながらも、貧しさのために欲望を満たせない人々が増大します。また一方で、貧富の格差は、自由主義社会に新たな抑圧や束縛を生み出しています。これらの出来事は将来、さらなる「強大な欲動の断念」を必要とする事態を招く可能性を秘めているのです。
 さて、話題をフロイトに戻しましょう。
 フロイトは、文化から押しつけられる「広大な領域における欲動の断念」が、文化への敵意を生んでいると指摘します。

 

 「これこそが、いかなる文化も免れえない文化にたいする敵意の原因である」(『文化への不満』458頁)

 

 文化からの規制、それは広範な領域における欲動の断念であり、この欲動の断念によって社会が成立します。一方で人間は、文化によって自然の脅威から守られながら生活して行くことが可能になります。このように人間と文化は切っても切れない関係にあるのですが、文化が欲動の断念を前提として成立している以上、いかなる文化もそこに属する人間から敵意を受けることになるのです。
 フロイトはこの後に続けて、文化に対する敵意の深層を探るべく人間の攻撃性の問題を取りあげ、人間の攻撃欲動の源泉こそ「死の本能(欲動)」にあると指摘しています。「死の本能(欲動)」については様々な議論がありますが、その是非については別の機会に譲ることにします。ここではただ、人間の攻撃欲動の源泉を、「死の本能(欲動)」に求める必然性はないことだけを指摘しておきましょう。それは、フロイトが指摘する「文化に対する敵意」こそが、実は人間の攻撃欲動の起源になっていると考えられるからです。
 さて、ここまでの議論を簡単にまとめてみます。もしフロイトの言うように、欲動の断念が文化の前提であるとするならば、文化によってしか生きられないわれわれは、常に文化から欲動の断念を強要されることになります。そして、欲動の断念の強要が、文化への敵意を生む原因であるとフロイトは指摘します。つまり、われわれは文化に頼って生きる一方で、欲動を断念させ続ける文化に敵意を抱き、文化を憎み続けているのです。この憎しみこそが、人間の攻撃欲動の源泉になっているのだと考えられるのです。

 

文化への敵意と攻撃欲動

 では、「欲動の断念が文化の前提になっている」のはどうしてでしょうか。欲動を断念させなければ、そもそも文化は成立しないのでしょうか。前回に検討した文化の定義に従って、この問題を考えてみましょう。
 前回のブログで私は、文化を自然の摂理から離反することによって生じた独自の適応方法・行動様式と定義しました。文化が発達するに従い、人々は自然環境に働きかけて人工の環境を創り、この環境の中で独自の生活様式や習慣を持って生きるようになりました。つまり、文化の発達は人工の生活環境を創造することへと進展し、それは人々の生活を自然環境から遠ざけることに繋がりました。このように文化によって人工の環境が創られ、人々が人工の環境の中で生きるようになると、環境と本能の満足との間にズレが生じ、環境と本能の役割が一致しなくなるという問題が生じることになりました。
 人間の本能は、文化を持つ直前の段階では、自然環境に対応するように作られていました。つまり、人間の本能は本来、自然環境の中でサルの一種として生きて行くように設定されていたはずです。しかし、文化を持った人間は、それ以降生物的な進化ではなく、文化によって生き延びる道を選択しました。文化によって創られた人工の環境は、自然環境とは異なっています。文化が発達すればするほど、この違いは大きくなります。すると人間の本能は、人工の環境の中でますます役立たなくなっていったのです。
 その結果、文化で創られた人工の環境の中で、人間は本能に従って生きることができなくなりました。そのため人間は、本能に代わる生きる指針を新たに創り出さねばなりませんでした。それが、文化によって定められたその文化に固有の「掟」でした。この「文化の掟」は、フロイトが指摘するように2)、3)、4)、当初はタブーを伴ったトーテミズムから始まり、それが宗教によって与えられる規範や道徳となり、やがて科学的世界観に裏打ちされた思想や法に変わっていったのでしょう。
 一方で、人間が文化の掟に従って生きるようになると、人間の本能は役割を果たさなくなっただけでなく、満足を得る対象を失うことになりました。動物の本能は、自然環境の中で適応するように設定されており、生きて行くための行動が取れれば満足を得られるように仕組まれています。しかし、人間の場合は、本能が想定していた自然環境とは異なる人工の環境の中で生き、文化の掟によって本能の満足が目指す方向とは異なる行動をとるようになりました。そのため文化に従って生活を営めば、必然的に本能の満足を得ることはできなくなるのでした。
 しかし、人間から本能がなくなったわけではありません。人間には、「自然環境の中でサルの一種として生きるための本能」は残されているはずです。ただ、環境に適応するために文化を発展させるという方策を選択し、文化によって生き延び、文化によって繁栄を遂げてきた人間は、今はもうサルの時代の生活に戻ることはできません。もし、そのような選択を行ったとしたら、自然から常に脅かされる生活に戻らざるを得なくなり、そうなれば膨大に増えた人間は大部分が生存できなくなってしまうでしょう。
 人間の本能は、こうして(サルの時代の生活に戻らない限り)永久に満足の対象を失い、対象を失った本能は、際限のない欲求を求め続けることになりました。人間の本能は、もはや環境に適応するための本能と呼べるものではなくなり、人間には本能の名残、つまり決して満足を得ることのない多様な「欲動」が残されました(欲動は、文化による影響を受けて、さらに多種多様な「欲望」を生み出しました)。
 そこで文化は、この欲動を断念させなければならなくなりました。本能が役に立たなくなり、本能の名残である欲動が満足の対象を失うと、人間の欲求は留まるところを知らなくなります。それは、文化が用意する欲求の対象は本能が本来求める対象ではなく、擬似的な対象にすぎないからです。擬似的な対象を得たとしてもその満足は一瞬にすぎず、欲動は新たな満足の対象を求めて際限のない追求を始めるのです。
 欲動に際限がなければ、さらに各個人が際限のない欲動に従って自由に行動したならば、社会からは規範が失われて体制が維持できなくなるでしょう。そればかりか、人間が人間によって死滅させられる事態すら起きかねないでしょう。そのため、満足の対象を見失った欲動を、文化は押さえ込まねばならなくなりました。
 ここで、文化と欲動の関係をもう一度振り返ってみましょう。欲動に際限がなくなったのは、文化によって創られた人工の環境で生活するようになり、人間の本能がその役割を失ったためでした。そして、文化が発達すればするほど生活空間はますます人工化し、文化の掟はより複雑になって本能的な生き方から遠ざかるようになりました。つまり、文化が発達するほど人間の本能は役に立たなくなり、本来の目的を喪失するのです。
 その結果、本能の名残である多様な欲動は、ますます方向性を見失い、満足を得るための対象を探し出すことが困難になりました。そして、対象を見失った欲動は常に束の間の満足しか得られず、さらに新たな満足を求めて際限のない追求を始めました。こうして、文化が発達するほど欲動には際限がなくなり、欲動は強大になりました。欲動が強大になると、文化は欲動の断念にさらに注意を払わねばならなくなるのでした。
 ここに、文化と欲動における根源的な矛盾が存在しています。もし文化の発達が人間の欲動を強大にするなら、文化はこの強大になった多様な欲動を断念させなければなりません。すると、文化に対する人間の敵意はさらに増強します。結果的に文化の発達は、人間の攻撃欲動をより増大させてしまうのです。(欲動を満足させるという意味で、資本主義はこの矛盾を解消させる体制として世界に広まっています。しかし、先にも指摘したように、欲動を満足させるために別の欲動を断念しなければならなかったり、一部の成功者しか欲動を満足させられず、多くの者が欲動を断念しなければならなくなったりするため、結局は資本主義もこの問題を解決できずにいます。それどころか、欲動をいたずらに刺激したうえで断念させるため、長期的に見れば、資本主義はよりいっそう攻撃欲動をかき立てる制度のように思われます)。
 この事情を簡略化して言えば、文化が多様な欲動を断念させることで文化に対する敵意は増幅され、多様な欲動が押さえ込まれることで攻撃欲動が突出して現れるのです。しかし、この攻撃欲動がそのまま文化に向けられたなら、人間は文化を維持することができなくなり、生存して行くための方策を見失ってしまうでしょう。
 では、対象を見つけられなくなった攻撃欲動を、われわれはどのように扱えばいいのでしょうか。次回は、この攻撃欲動と戦争の関係について考えてみたいと思います。(続く)

 

 文献

1)フロイト,S.(浜川祥枝 訳):文化への不満.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.
2)フロイト,S.(西田越郎 訳):トーテムとタブー.フロイト著作集3,人文書院    京都,1969.
3)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.
4)フロイト,S.(浜川祥枝 訳):ある幻想の未来.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.