人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(13)

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 前回のブログでは、わが子を虐待し、さらに死に至らしめてしまった親たちの事例を取り上げました。彼らはその鬼畜のような行いにもかからず、異口同音に「愛していたけど、殺してしまいました」と語ったといいます。

 親たちは、なぜわが子を愛しながらも殺してしまったのでしょうか。引き続き、石井光太氏の『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』1)をもとに検討してみましょう。

 

育児の仕方を教わっていない

 人間は動物と違って、本能に頼って子育てをすることができません。したがって、人は親や親族から育児の仕方を教わるか、自分で学びながら育児の経験を積んで行きます。大家族だった時代は、妹や弟の子育てを手伝いながら育児を学んで来ました。

 現代は、核家族少子化の影響で、子ども時代に育児を経験する機会は乏しくなっています。そのため育児書で勉強をしながら、子育てをする親も多くなっていると思われます。ところが、子どもは、育児書に書いてある通りには反応してくれません。いつまでも泣き止まなかったり、夜泣きがひどかったり、ミルクを飲まずに吐いてしまったり、しょっちゅう熱を出したりすることもあるでしょう。そんな時に役に立つのが、長年蓄積された経験に基づいた対応です。それは親から教えられる場合もあるでしょうし、自分がしてもらった対応を思い起こすこともあるでしょう。

 しかし、親から育児の仕方を教わっていない、または自らがきちんとした育児を受けていない場合には、自分が親になったときに、子どもにどのような対応をすればいいのかが分かりません。そればかりか、幼少時にひどい養育を受けた親たちは、子育てをする際には、自分が受けたのと同じような対応をしてしまうのです。

 子どもを虐待し、死に至らしめた親たちは、一様に悲惨な成育歴を持っています。『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』にしたがって、以下でそれを確認してみましょう。

 

悲惨な成育歴を持つ親たちー「厚木市幼児餓死白骨化事件」

 5歳の齋藤理玖(りく)君をアパートに放置し、死に至らしめたうえ7年間も放置していた「厚木市幼児餓死白骨化事件」の父親である齋藤幸裕は、自らの母親が統合失調症を発症しています。しかもその症状は、重篤で安定しませんでした。満足な治療を受けていなかったのかも知れません。

 母親は家に何十本というろうそくを並べて火をつけ、「悪魔が来る!悪魔が来る!」と髪を振り乱しながら室内をぐるぐる回ったいたといいます。さらに、夜間に家の窓を開けてフライパンを叩いて奇声を上げたり、油を道路にまき散らしたり、路上に消火器や工事用の赤いコーンを並べたりしていました。ろうそくの火が洋服に引火し、大火傷を負って半年間入院したり、自宅のベランダから飛び降りて大怪我を負ったこともあったようです。

 齋藤の父親は、仕事で忙しいと言ってほとんど家に帰って来ず、たまに早く帰宅しても「俺は疲れているんだ」と言って協力しようとしなかったようです。

 こうした家庭環境で育った齋藤は、「重い現実を一人で背負うことができずに、つらいことを忘れるとか、想像力を停止させることを無意識のうちにするようになった」と精神鑑定されています。

 妻が失踪した後に齋藤は、電気もガスも水道も止められたアパートに理玖君を一人で残し、仕事の傍ら不充分な食べ物を与えるだけで放置していました。理玖君が勝手に外に出てからは和室に監禁していました。重い現実を受け止めることができず、想像力を停止させていた齋藤は、裁判では「ちゃんと普通に育児をしていた」と主張しています。

 齋藤は新しく彼女ができてからは、アパートに戻る回数がさらに減りました。衰弱した理玖君は、ゴミに埋もれた不潔な環境の中に放置され、極度の空腹による苦痛を感じながら一人で絶命しました。さらに誰にも気づかれることなく、7年もの間放置されたのです。

  一方、理玖君の母親である愛美佳(仮名)は、祖父が箱根で大きな旅館を創業し、地元では広く知られる存在でした。祖父は一代で財を築いた一方で、女性にはめっぽうだらしがなく、3人の女性に5人の子どもを産ませており、それ以外にも女性関係は派手だったようです。

 祖父の本妻の次男が愛美佳の父親ですが、彼も祖父さながらに女癖が悪く、家庭そっちのけで愛人との遊びに溺れていました。女遊びや浪費を繰り返していた父親は、周囲を見返そうと新たな事業に手を出して失敗し、旅館の社長である兄に泣きついて尻拭いをしてもらう羽目になりました。自分のふがいなさに絶望した父親は、突然「自らをリストラする!」という捨て台詞を残して、愛人とともに箱根から蒸発してしました。

 女遊びにうつつを抜かす夫への鬱憤を晴らすためか、愛美佳の母親は3人の娘たちに徹底したスパルタ教育を施すようになります。姉妹全員に小学校受験をさせて地元のお嬢様学校に通わせ、優秀な成績を取るように命じて日夜勉強を強いました。

 もともと勉強が得意でなかった愛美佳は、母親に頭ごなしに罵倒されるうちにますますやる気をなくし、成績は低迷して行きました。彼女は成長するにつれ、勉強の遅れだけでなく、手癖の悪さや虚言癖までが頭をもたげるようになりました。母親は愛美佳をさらに激しく罵り、厳しく接しました。

 父親が蒸発した後の母親は、旅館で仕事をすることになり、家庭を投げ出して仕事に打ち込みました。愛美佳は高校進学後は家に寄り付かなくなり、繁華街で同世代の不良たちと夜遅くまでつるむようになりました。そうしたなかで幸裕と出会い、高校を中退して幸裕のアパートに転がり込んで同棲を始めました。そして翌年に妊娠が分かって、二人は結婚しました。このとき生まれたのが、理玖君だったのです。

 愛美佳は自分が母親になってからも、満足な子育てができませんでした。それは自らが、母親から充分な愛情を受けられなかったことの裏返しだったのかもしれません。そればかりか、育児を放棄して失踪した姿は、父親の行動を無意識のうちに模倣したのだと言えるでしょう。

 

悲惨な成育歴を持つ親たちー「下田市嬰児連続殺害事件」

  この事件を起こした高野愛(いつみ)は、2度の離婚を経てシングルマザーとして3人の子どもを育てていました。子どもの父親から養育費はもらえず、長女は認知さえされていませんでした。ただ、愛の母も祖母も、同じような経歴をもっていました。

 愛の祖母は7人の子を産んだものの、夫との不仲から離婚しました。祖母は懸命に働きながら、7人の子ども全員を育て上げ、その長女が愛の母親でした。

 祖母は生活のために働くのに精一杯で、子育てにまで手が回らなかったからか、「あの家の人たちはみんなダメ」と地元ではささやかれていました。愛の母親は「明らかにおかしな女性」と断じられ、愛が一時世話になった叔母は「人間として間違っている」「自分のこととお金のことしか考えない」とさえ言われていました。

 愛の母親は、家庭を持っていたと思われる男性との間に3人の娘をもうけましたが、彼は3度目の出産の後に行方をくらまし、音信不通になりました。低賃金で働きながら3人の娘を育てなければならなかった母親の鬱屈した感情は、長女であった愛に向けられることが多かったといいます。

 愛は妹二人の面倒や家事を一手に引き受けていたにも拘わらず、母親から意味の分からない怒りを向けられ、ひとり罵声を浴びせられ続けていました。口答えしても無駄だと悟った愛は、いつも感情を押し殺してうなだれ、やり過ごしていたといいます。そして、どんなことを言われても右から左に聞き流して、何も感じないでやり過ごす性格になりました。その影響からか、愛は人から無理なことを頼まれても絶対に断らずに引き受けていたため、「八方美人」「何でもしてくれる子」とみられていました。

 愛が中学2年生のとき、母親が新たな恋人をつくって妊娠しました。そして、未婚のまま長男を出産しました。愛は母親の男性関係を目の当たりにしながら、中学3年生のときに初体験をすませました。高校に入学後は、愛は複数の男性と関係を持つようになり、高校2年生から10年余りの間に、8人の子どもを妊娠しています。そのうち育っているのは3人にすぎず、亡くなった5人のうちの2人を、周囲に隠したまま出産し、し、遺体を天井裏と押し入れに隠していたのです。

 最初の出産後に頼った叔母の家では、愛が働いて得た給料の大半は生活費と称して叔母にかすめ取られました。離婚後に戻った実家でも今度は母親から「子守賃」として母親から給料をむしり取られました。愛は掛け持ちで行った派遣コンパニオンの仕事にストレスの発散を求めるようになり、酒を浴びるように飲み、酒の席で会う男たちと相手かまわず肉体関係をもつようになりました。

 2度にわたって結婚した夫は仕事もせず、愛が不平を漏らせば殴る蹴るの暴力をふるい、お金に困ったときには盗みをはたらくような男でした。母親と叔母は、愛からむしり取ったお金で外食をしたり、子どもたちと泊りがけでディズニーランドに行ったりしていました。 誰の子が分からないまま妊娠し、しかも中絶の費用を用意できなかった愛は、妊娠をかくしたまま一人で出産しました。そして、嬰児の遺体を天井裏や押し入れに隠す犯行に及んだのです。

 

 以上のように、子どもを殺した親たちは自らも悲惨な成育歴をもっていました。さらに言えば、その歴史は、少なくとも祖父母の時代から始まっていました。

 次回のブログでは、「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」についても検討したいと思います。

 

 

文献

 1)石井光太:「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち.新潮社,東京,2016.