人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(4)

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 前回のブログでは、近代化によって、ヨーロッパの女性及び母性文化が大きな打撃を被った過程を概観してきました。

 今回のブログでは、母性文化の消退が、子育てに及ぼした影響について検討したいと思います。

 

子育ての放棄

 近代の幕開けと共に、ヨーロッパ社会において、女性および母性を支える文化は重大な打撃を被ることになりました。それは母性という概念が、消滅の危機に瀕する事態に繋がりました。
 エリザベート・バダンテールの『母性という神話』1)によれば、18世紀のフランスでは、母親が自らの子どもを育てず、出産後すぐに乳母のもとに里子に出す習慣が一般化していたといいます。バダンテールは、同書のはじめに次のように記しています。

 

 1780年。パリ警察庁長官ルノワールは、しぶしぶ、次のような事実を認めている。毎年パリに生まれる2万1千人の子どものうち、母親の手で育てられるものはたかだか千人にすぎない。他の千人はー特権階級であるがー 住み込みの乳母に育てられる。その他の子どもはすべて、母親の乳房を離れ、多かれ少なかれ遠く離れた、雇われ乳母のもとに里子に出されるのである。

 多くの子は自分の母親の眼差しに一度も浴することなく死ぬことであろう。何年か後に家族のもとに帰った子どもたちは、見たこともない女に出会うだろう。それが彼らを生んだ女なのだ。そうした再会が歓びにみたされていたという証拠はどこにもないし、母親が、今日では自然だと思われている、愛に飢えた子どもの欲求をすぐに満たしたという保証もまったくない」(「母性という神話」25頁)。

 

 フランスのこうした習慣は、古くは13世紀にもっぱら貴族階級の家庭で始まりましたが、16世紀の終わりから一般の家庭に流行し、18世紀には乳母が不足するほどまでに一般化していました(上掲書81-83頁)。

 それにしても、パリで生まれた2万1千人の子どものうち、1万9千人が里子に出されていたというバダンテールの指摘は、実に驚嘆すべきものです。これは9割の子どもが母親に育てられなかったことになり、当時の子育てはまさに破綻していたと言えるでしょう。

 

ヨーロッパに広がった里子制度

 この習慣は、典型的にはフランスに認められましたが、イギリスやドイツでも広く模倣されていたとの資料もあります(同124頁)。そして、子どもが出された先の成育環境は劣悪で、1歳未満の乳幼児の死亡率は常に25%を上回っていたといいます(同171頁)。そして、3歳か4歳まで、あるいはもっと長く乳母のもとで育てられた子どもたちが自分の家に帰ったきた後は、家庭教師の手に委ねられ、さらに教育を受けさせる年齢になると、寄宿学校や修道院学校にあずけられました。教育を受けさせる年齢になると、寄宿学校や修道院学校にあずけられました。
 当時の母親は、子育てだけでなく、子どもの健康や将来に対して、あくまで無関心だったのです。社会的規模で行われたこの驚くべき事実は、18世紀のヨーロッパ社会において、母性文化が消滅の危機に瀕していた証左の一つとして捉えられるでしょう。

 

乳幼児に関心を持たないことが普通

 同様の指摘は、バダンテールに影響を与えたエドワード・ショーターの『近代家族の形成』2)にも詳しく述べられています。彼は、18世紀から19世紀初めの頃までは、庶民階級の人々の間では、親は乳幼児に対して関心を持たないのが普通であったと指摘しています。

 

 「深刻なのは、子どもをかなり長時間一人でほっておく一般的な習慣があったことである。(中略)子どもたちは、巻き産衣にぐるぐる巻きにされ、何時間も排泄物にまみれさせられていたり、暖炉の前に放置され、服に火がついて死んでしまったり、また、誰も気をつけていなかったために飼い豚におそわれて食べられたりということがあちこちで見られたという。(中略)
 モンペリエ近郊では、とくに蚕が成長する時期になると、不衛生や世話不足が原因で死亡する幼児の数は、流行病で亡くなる幼児の数を上まわるといわれていた。(中略)
 工場で働く場合も同じであった。ブダペストの母親は、しばしば、小さな子どもをほんの2、3歳年長の子どもと残したまま一日中家を空けていたので、『さまざまな事故が起きたり、病気の子どもは、医者に診せるのが遅れて、その病状が急激に悪化してしまうのである』(ところが、母親が子どもをいっしょに連れていく方が家に残しておくよりなお悪かった。生活のため日雇い労働者として働かねばならない母親は、『どんな悪天候でも、ただ子どもを毛布に巻いただけで、近くの道端に寝かせておく。そのために多くの子どもが死亡したのである』)」(「近代家族の形成」179-180頁)。

 

 ショーターは、このような母親の怠慢の理由を、経済性だけに求めることはできないと指摘しています。当時の母親は子どもに対して無関心であり、それは母親が子どもに優しさに満ちた心遣いをみせず、幼児を育みその人格を育成しようと努力しなかったことや、母親が子どもの死に対してまったく哀悼の情を示さないこと、母親が離婚するときに子どもを放棄していた事実などに現れているといいます(上掲書180-181頁)。
 このようにショーターは、伝統社会では、母親は2歳以下の幼児の成長や幸福には無関心であり、母親が幼児の養育に心を砕くようになったのは18世紀末になってからであると指摘しています。ちなみに、ショーターの言う「伝統社会」とは、近代以前の時代全般を指しているようですが、母性愛を欠いた社会は、16世紀に起こった宗教改革以降に出現したものであると考えられます。先に述べたように、中世ヨーロッパには、母性が重要視される文化が存在していたからです。

 

捨てられる子どもたち
 さらに、同じような指摘は別の資料の中にも見出すことができます。『ヨーロッパにおける家族構造と機能の変貌』3)には、近代における各国の養育事情が以下のように記載されています。

 

 産業革命後のイギリスにおいて)「労働者階級では、母親も働いているため、乳児は家に残され、授乳も不規則であり育児に十分な時間をさけず、手間もかけることができなかった。泣く子をてっとり早くねかせる方法として、子供にアルコール飲料を与えることもあった。これが、乳幼児の健康にいいわけがなかった」(「ヨーロッパにおける家族構造と機能の変貌」69頁)。

 (フランスの)「アンシャン・レジームの末期には、人口問題に対する関心が高まった。数々の要因の中で注目された一つは、高い乳児死亡率の原因だった捨子と里子の問題だった。(中略)乳児死亡率の下降のために孤児院の改善と里子を預る乳母の質の向上や里子制度の改善などが考えられた」(「ヨーロッパにおける家族構造と機能の変貌」74頁)。

 「オーストリアのウィーンでは、生まれる子2人に1人が非嫡出子であった。(中略)19世紀前半にはすでに人工妊娠中絶の方法も知られてはいたが、通常は妊娠した子供は生むより他はなく、これが捨子の数を増加させた。再び、ウィーンの統計では『生まれた子供の3人に1人は捨子ないし里子として母から引離される運命にあり、また私生児のうち3人に2人は捨てられることになった』(中略)。
 18世紀末のベルリンでも状況に変化はなく、結婚難が国家や社会に与える悪影響を説き、そのほとんどが成人に達することなく死亡する私生児の運命に注目する本も出版された」(「ヨーロッパにおける家族構造と機能の変貌」80頁)。

 

 こうした育児環境の悪化は、産業構造の変革に伴う家族形態の変化に負うところもありますが、その背景には、母性を支える文化が社会的規模で失われかけていたことが影響を与えていると考えられます。そうでなければ、これ程までに高い割合で我が子を里子に出したり捨て子にすることが起こり得ないからです。ヨーロッパ近代において、母性文化は、まさに消滅の危機に瀕していたのです。

 

乳幼児の虐待が日常化していた

 以上のように、18世紀から19世紀の初旬までのヨーロッパでは、親は子育てに無関心でした。多くの子どもは里子に出されたり、ひどい場合は捨てられました。親が自分で育てる場合でも、子どもは手をかけられることはなく、放置されました。

 上述の例で言えば、「子どもたちは巻き産衣にぐるぐる巻きにされ、何時間も排泄物にまみれさせられていたり、暖炉の前に放置され、服に火がついて死んでしまったり、また、誰も気をつけていなかったために飼い豚におそわれて食べられたりということがあちこちで見られた」、「小さな子どもをほんの2、3歳年長の子どもと残したまま一日中家を空けていた」、「生活のため日雇い労働者として働かねばならない母親は、どんな悪天候でも、ただ子どもを毛布に巻いただけで、近くの道端に寝かせておいたため、多くの子どもが死亡した」、「母親が子どもの死に対してまったく哀悼の情を示さなかった」、「母親が離婚するときに子どもを放棄していた」、「泣く子をてっとり早くねかせる方法として、子供にアルコール飲料を与えることもあった」というものです。

 

罪悪感を感じない母親

 こうした行為は今ならネグレクト、それも非常に悪質なネグレクトだと言えます。里子に出された乳幼児の死亡率が常に25%を上回っていたことや、不衛生や世話不足が原因で死亡する幼児の数が、流行病で亡くなる幼児の数を上まわったことが、それを如実に物語っています。

 当時は母親が育児に無関心なのが半ば常識になっており、母親たちが育児を放棄することに何ら罪悪感を感じていなかったと思われます。だからこそ、虐待が一般化し、反省されることなく繰り返されたのです。現在の日本で問題になっている乳幼児虐待の原点が、まさにここにあると言えるでしょう。

 ちなみに、西洋人の赤ちゃんがびっくりするほど可愛いのは、この時代の影響を受けているからではないでしょうか。母親が育児に関心を示さなかったり、子を里子に出したりする環境において、充分な養育を受けられるためには、子どもの可愛さは重要な要素であったと思われます。つまり、外見がさほど可愛くなかった子どもたちは、ただそれだけの理由で育児放棄の対象になりました。その結果として、幼少期に可愛い子どもが選択されていったのです。

 

 いずれにしても、このままの状態が続けば、ヨーロッパでは子どもが満足に育たずに、やがて社会は消滅してしまったでしょう。そこで育児の文化を復活させるべく、新たな母性が模索されました。それが「母性神話」でした。

 次回のブログでは、西洋文化に生まれた新たな母性文化について検討したいと思いす。(続く)

 

 

文献

1)E.バダンテール(鈴木 晶訳):母性という神話.ちくま学芸文庫,東京,19882.
2)E.ショーター(田中俊宏,岩橋誠一,見崎恵子,作道 潤 訳):近代家族の形成.昭和堂,京都,1987.
3)塩田長英、島津隆文:ヨーロッパにおける家族構造と機能の変貌.財団法人日本総合研究所,東京,1985.