自己肯定感はどのように育まれるのか(1)

 前回までのブログで、日本の若者がなぜ死に走るのかという問題について、社会的な側面、歴史的な側面、文化的な側面から検討してきました。そこでは日本の若者に、自己肯定感が極端に低いという問題が浮かび上がってきました。

 今回からのブログでは、自己肯定感はどのように育まれるのかを検討したいと思います。

 

自己を形成する三つの要素

 自己肯定感という場合の「自己」とは何を指し、どのように形成されるのでしょうか。

 自己は、自分が自分であると意識している主体を指しますが、三つの要素が基になって形成されます。その要素は、「身体」と「文化」と「言語」です。以下に、順に説明してゆきましょう。

 まずは「身体」です。

 身体が自己であることは自明のことでしょう。身体は自己そのものであり、自己の最も基盤をなすものです。他者から見ても、身体こそその人自身であり、その人の自己だと認識されるでしょう。

 ただし、自分の身体が自己と認識されるには条件があります。それは身体が健康であり、身体感覚が正常に働いていることです。

 

身体感覚とは

 自分の身体は紛れもなく自分のものですが、その身体が自分の身体であると感じ、その身体がどのような状態であるのかを理解するためにある感覚が身体感覚です。身体感覚は、さまざまな感覚から成り立っています。

 まず、自分の身体像を知るためには、視覚とともに、触圧覚、温痛覚といった皮膚感覚が必要になります。これらの感覚によって、わたしたちは自分の身体の全体像を掴んでいます。

 次に、身体、特に頭の位置がどのように変化しているのかを知るためには、視覚や聴覚の情報に加えて、平衡感覚が重要な役割を果たします。動いている身体の位置変化を逐次理解することで、環境の中で活動する身体を他のものと峻別して動的に理解することができるのです。

 さらに、内臓の感覚器からの情報による内臓感覚によって、わたしたちは内臓の状態、さらには身体の痛みや全身の倦怠感を感じることができます。また、嗅覚や味覚は、身体に取り入れるものの情報を得ることの他に、身体の状態を反映することがあります。たとえば妊娠の初期には嗅覚が敏感になり、酸っぱいものが食べたくなるといった嗅覚と味覚の変化が起こります。身体状態が悪化した際には、健康なときには良い匂いや美味しい味に感じたものが、逆に不快な感覚に変わります。

 以上のように身体感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚と言った特殊感覚に加えて、平衡感覚、触圧覚、温痛覚、さらには内臓感覚といったさまざまな感覚を総動員して得られる複雑で総合的な感覚です。

 

身体感覚が異常を来すと

 身体感覚が複雑で総合的な感覚であるために、精神状態によってさまざまな影響を受けることがあります。

 たとえば、わたしたちの日常生活においても、緊張したり気分が高揚したりすると、身体の疲れを感じにくくなることがあります。さらに軽躁状態躁状態になると、睡眠を取らなくても疲れを感じなくなり、多弁、他動の状態になります。こうした状態になると疲れを感じないだけで、実際には身体的な疲労は着実に蓄積して行きますから、限界に達したときにはうつ状態になって逆に動けなくなります。

 また、身体的には異常がなくても、身体感覚に異常を来す場合があります。不安感や焦燥感が強いときには、その影響を受けて身体感覚に異常を感じることが起こります。不安感の反映として、さまざまな身体的な異常感覚が起こるのです。すなわち、頭痛や胸痛や腹痛といった痛みの感覚や、めまいやふらつきや吐き気、動悸・息切れや呼吸困難、さらには慢性の疲労感や全身倦怠感が起こることもあります。これらの症状は、実際には身体に異常がないのに感じられる異常感覚で、心気症または身体表現性障害という疾患でみられる症状です。

 

文化は人と動物を隔てるもの

 次に、自己を支えるものとして挙げられるのが「文化」です。

 文化とは何か。文化は、自然の摂理から離反することによって生じた、独自の適応方法・行動様式であるとわたしは考えています。

 たとえば、武器を使って集団で狩りをするという人類の行為は、それまで肉食獣に捕獲される立場にあった人類が他の動物を捕獲する立場に立ったという意味で、自然の摂理から離反する行動様式だと言えるでしょう。また、衣服を使用することは、人類の身体的特徴に適さない環境(または、人類の進化とは相容れない環境)において生存が可能になるという意味で、自然の摂理から離反した適応方法だと言えるでしょう。

 この定義によれば、人類とは、文化という自然の摂理から離反した適応方法・行動様式を手にした存在であると捉え直すことができます。そして、文化を持つことによってそれまでの動物から人類が区分され、文化に特徴づけられたヒトという新たな存在が誕生したと考えることができます。

 

文化による人類の繁栄

 文化が発達することによって人類は、自然の摂理からさらに離反した適応方法・行動様式を採るようになりました。その特徴を端的に言えば、自然環境に働きかけて人工の環境を創り、この人工の環境の中で独自の生活様式や習慣を持って生きるようになったことです。

 人工の環境の中で自分たちのルールを作って生活することこそ、自然の摂理からさらにかけ離れた行為であると言えるでしょう。この段階に至って人類は、はっきりと他の動物から区分された存在になり、他の動物とは異なった独自の生活を送るようになりました。

 文化の営みがさらに発達すると、文化が創り出す人工の環境はいっそう自然環境から隔てられ、人類が生きて行くために有利な状況を形成しました。文化の形成は生存に有利な人工の環境を創り出すことによって、また文化の可変性と膨大な情報量によって、人類を他の生物より決定的に有利な状況に導きました。他の動物のような優れた身体機能を持たない人類が、現在の地球上で繁栄を謳歌しているのは文化を持ったからに他なりません。

 

日本には日本固有の文化が存在する 

 ことように人は本能ではなく、文化によって生きる指針を与えられています。

 その文化は、人工の産物であるために、いかようにも創造することができます。したがって文化は、本能のように種に共通のものではなく、生活環境が異なればその環境に適した文化が誕生し、異なった文化が近接すれば、互いの文化は影響を与え合って変化します。こうして文化は、民族により、地域により多種多様になり。それぞれ異なった固有の内容を含むようになりました。

 そのため文化が異なれば、人は異なった行動をとります。日本には日本に固有の文化があり、日本人は固有の文化によって生きる指針を与えられています。個々の「自己」も、日本の文化に支えられ、日本の文化によって生きる指針を与えられているのです。

 

日本文化の危機的状況 

 ところが、個々の「自己」を支える日本文化が、危機的状況に直面しています。

 文化は人工の産物であるために、その根拠は架空の物語によって支えられています。そして架空の物語が架空であることが分からないように、この物語には触れてはならないタブーが存在しています。架空の物語とそこに触れてはならないタブーが併存することによって、この架空の物語は「神話」となります。

 このように文化には、その文化に固有の「神話」が存在します。神話は文化の根拠であり、その文化が存在するために必要不可欠な存在です。日本文化にも、文化の成り立ちを語った神話が存在します。その神話の代表的なものが「古事記」です。

 個々人が安定した自己を確立するためには、自己を支える安定した文化が必要になります。日本人が安定した自己を確立するためには、安定した日本文化が存在することが不可欠です。

 ところが現代の日本文化は、安定どころか危機的状況に瀕しています。その原因はなによりも、日本文化の神話である「古事記」がないがしろにされ、子どもたちに教えられていないことにあります。戦後の教育では、古事記は荒唐無稽な物語であり、さらには軍国主義を導いた物語として否定的に捉えられてきました。その結果として、日本文化はその存在根拠を奪われ、空中分解さえしかねない状況に陥っているのです。

 

反省から始まる教育

 さらなる問題は、戦後の教育では、日本文化そのものを否定的に捉える風潮があることです。

 戦後のGHQによる占領政策の一環として、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)が実行されました。WGIPとは、「悲惨な戦争を引き起こしたのも、現在および将来の日本の苦難と窮乏も、すべて『軍国主義者』がもたらしたのであって、アメリカには何ら責任はない」という情報を教え込むという施策です。つまり、それまで欧米諸国が行ってきた非道な植民地政策も、アメリカが行った非戦闘員を対象に行った都市の空爆や原爆投下も一切不問に付して、ただただ日本の軍国主義者にすべての責任を負わせようとする洗脳教育です。

 この洗脳教育に、こともあろうか日本の教育者たちが率先してはまり込みました。その結果として教育現場では、戦前の日本は間違っていたという反省から歴史教育がなされました。さらに、欧米諸国や共産主義諸国の先進性が強調され、日本文化の問題点が強調されることになりました。

 日本の先人は間違っていたという教育、そして反省から始まる教育を唱える教師自身は、高みに立つことによって、自分自身の自尊心を保つことができるでしょう。しかし、先人を否定され、さらには日本文化を否定された子どもたちは、自らの拠って立つ根拠を確立することできず、自己肯定感を育むことができなくなります。

 したがって、子どもたちが自己肯定感を育むためには、神話の重要性を見直し、日本文化の優れた側面を再発見することが必要です。そして、反省から始まる教育ではなく、日本文化の素晴らしさを伝える教育を行うことが不可欠なのです。

 

 次回ブログでは、自己を形成する要素としての「言語」について検討したいと思います。(続く)